血だらけでも譲りたくないもの。
私の鬱々とした気持ちの話だから、あまり気分のいい話ではないかもしれない。
嫌になったら、いつでも引き返してくださいね。
ある意味、これを、遺書にしてしまいたいくらいの気持ちで書き始めています。
こんなこと言って、結局いのちを絶つ勇気も手段も持っていないから、生きながらえるんだろうけれど、それでも一度ここで自分が死んでしまっても構わないと思うくらいの気持ちで、これを書こうとしています。
私は、ことばが好きです。
何が好きって言われたら分からないけれど、私は、ことばが好きです。
好きであるがゆえに、過敏になって、怖くなって、小さな棘で流れる血も苦くて、そうして、気づいたら、鬱になっていました。
もちろん他のストレス源もあると思います。仕事の内容とか。
でも、これまでの短い人生の中で受けたことのないことばの波の中で、息ができなくなったのも、大きな要因だと、私は思っています。
資料の片づけをしていて、仕事中の自分のメモを見つけました。
『共通言語で話したい』
ひとこと、そう書いてあった。
これまでの生活の中で、たとえ本当に思ったことが伝わっていなかったとしても、分かったふりができる程度には意思疎通ができることがあたりまえでした。
それはきっと、これを読んでいる多くの人もそうなのではないかと思います。
そりゃ、感情を伝えるってなったら話は別です。感情なんて、どれだけことばを尽くしても伝えられない。色をことばで表現するようなものだから。
でも、いわゆる「事実の説明」であれば、ある程度は、伝わるものだと、私は思っていました。
それが、できなかった。
背景知識の違いと、その意識のすり合わせの失敗、ことば選びの癖、いろんな原因があると思うけれど、なんにせよ、私は、上司の話していることばの理解が出来なくて、自分が何を理解できていないのかもわからなくて、そうしてどんどん息ができなくなっていました。
なにが正解だったのか、私にはわかりません。
わからないことをどうやって質問すれば伝わるのかもわからない。
質問したメールに対して「どういうことかよくわからなかったんだけど笑」って言われる。
説明をしてもらっても、結局自分が気になっていた部分が解決されていない。
そんなことを繰り返しているうちに私の心が限界を迎えたようでした。
新入社員だから当たり前だろ、と思う人もいると思います。
私ですらそう思う。なんで耐えられなかったんだろう。わからなくてあたりまえだって開き直ればよかったのに。って。
でも、私のことばの感度がそれを許さなかったんだと思います。
私は人に比べて、話すのが下手だと思います。
どういうことばを選ぶのがよいか、どんなことばだと相手に上手く伝わるか、考えて、考えて、考えながら話してしまうから、いつもすごく時間がかかってしまいます。
だからこそ、考えて考えて考えたことばの羅列を「よくわからなかったんだけど笑」で一蹴されたときに本当にショックだった。
共通言語を話せない人と、どうやって意思疎通を図ればいいか、わからなくなったのが、そのときからだったのだと、今振り返ると思います。
次第に私は、共通言語を話している「フリ」をできるようになってきました。
それとなく仕事をこなせるようになってきました。
でも、自分が何をやっているか、理解できていないまま。
脚がもつれたまま走り続けているような状態でした。
今さら聞けない、気づいたら独り立ち状態になっている、どうしてもわからなくて質問すると私の知らないスキルでしか解決できない方法で進められていく。
どうしたらいいかわからなくて、また私は、息の仕方がわからなくなりました。
だんだんと、ストレスという形が、鬱になっていったのは、このあたりだったんじゃないかと思います。
思ったより長くなってしまいました。
私が書きたかったのは、こんな過去を振り返る話じゃなかったのになあ。
あのね、
まあ、上記のようないろんなことを思って、いわゆる鬱状態だと診断されて、仕事もお休みすることになって、もう今なにもかもが嫌で、しにたいって、日に何度も何度も思ってしまうんです。
伝わらないことばを吐き出す毎日が、心をカスカスに擦り減らしてしまっていたみたい。
推しを見る元気もなかなか出ない。大好きな言語学の本を読む気力も、分析をする元気もなかなか出てこない。ただ漫然と時間だけが過ぎていって、そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、しにたくなるんです。
でも、
私は、ことばが好きです。
これだけは、最期まで絶対に譲りたくないんです。
心が既にボロボロだった10月の頭に、知り合いのお芝居を観に行きました。
観劇後、なかなか感想がまとまらなくてうまく伝えられなかったのですが、
「ぽんさんの感想楽しみやから、またじっくり聞かせてほしいなあ」
って言ってもらったんです。
その人は過去に、私の観劇の感想が、本格的に役者を志すきっかけになったって言ってくれた人でした。
そのときに、私は、私のことばの存在を認めてくれる人がいるんだ、って思って、嬉しくて、悲しいくらいに嬉しくて、涙が止まらなかったんです。
おかしいですね、今これを書いていても涙が出てきました。笑
無謀な希望かもしれないけれど、
もし私のことばで何か光を見つけられる人がいるなら、
私のことばで誰かの背中を押したり、誰かの手をにぎったりすることができるなら、
私は死ぬ直前まで、私のことばを、大切に、大切にしたい。
そう、思ったんです。
これだけ長く書いておきながら、伝えたかったのはこれだけです。
例えばもし、私の文章がきっかけで言語学を好きになってくれた人がいたら、それだけで本当に幸せなんです。
私のことばがきっかけでなにか視点が変わったって人がいたら、それだけで本当に嬉しいんです。
私は、自分のことばにずっと、誇りを持っていたい。
ことばを好きでいる自分に、胸を張っていたいんです。
具体的にどうしたらいいかはわかりません。今考えるつもりもありません。
だってこれはただの遺書だから。
もし私のいのちがなくなっても、私のことばを生き続けさせるための、ブログなんだから。
明日もし私がいなくなっても、この文章だけは生き続けるんだよ?
愉快で、皮肉で、楽しいでしょう?
私は、ことばに傷つけられて、ボロボロにされて、ことばに敏感だからこそ必要以上に血まみれになってしまった。
それでも私は、死ぬ直前まで絶対やめないんだから。
私のことばだけは、誰にも殺されたくないんだ。
誰に届くのかもわからない誰かへ。
私のことばが響く誰かへ。
佐野さんの『オレンジ』が炊き立ての新米みたいに美しかったよね、ってお話。
●はじめに。
こんにちは。こんばんは。
ご来訪いただきありがとうございます。
さて、早速ですがこのはてブをお読みくださっているみなさま、
2021年8月28日にTBS系列で放送されていた
『生放送で満点出せるか 100点カラオケ音楽祭』
をご覧になりましたでしょうか?
(見逃し配信終わっちゃいましたね……録画が残っている方はテープ擦り切れるまで見ましょうね……)
私は数回前のはてブでも書いているように福本担を名乗っているのですが、この佐野さん見ながら自分でも引くくらいにボロ泣きしていました。
何度見ても、佐野さんの歌声の美しさ、表情の柔らかさ、選曲、横で聞いている小島さんの表情、もうそのすべてが涙腺を攻撃してきて、、、その節はタイムラインを荒らして申し訳ございませんでした…。
ただですね、ちょうど放送から1日くらい経ったころでしょうか、
懲りずにまた録画を見ていたときに、突如として気づいたことがあったのです。
それは、2番のBメロを聞いていたときのこと。
"歯がゆい旅路の途中で寝転んだね"
の部分を聞き、私は目を見開きました。
[ŋ]だ!!!!!!鼻濁音だ!!!!!!
それに気づいてから改めて聞くと、なんということでしょう、上記の場所以外にも鼻濁音があるじゃないですか。
はーーーーーーー佐野さん好き。
でも佐野さん、普段鼻濁音を使用しているイメージってほとんどないんです。
(どちらかと言えば鼻濁音と言えば正門さん。)
そう考えてみると他にも普段とは少し違った歌い方をしているのかな、と思うような、思わないような……
とまあこんなわけで、私の中の言語学人格が燃え上がりまして。
音韻学的視点で見てみようかな、と思ったわけです。
先にお断りしておきますが、
・声楽は人生で一度も触れたことありません。
・正直音韻学も大学時代に概論の授業でサラっとやった程度です。
・どんな歌声の佐野さんももちろんもちろんもちろん大好きです(最重要)
この3点をご理解いただいた上で、もしよろしければお読みいただけると嬉しいです。
●鼻濁音について。
そもそも[ŋ]ってなんやねん、鼻濁音ってどんなやねん、と思われる方もいるかもしれません。
辞書には、次のように記されています。
【鼻濁音】
鼻音化した濁音。一般にガ行鼻濁音(ガ行鼻音)をいう。「かがみ(鏡)」「しらぎく(白菊)」「どうぐ(道具)」などの「が」「ぎ」「ぐ」の頭子音の類。音声記号は[ŋ]。
【ガ行鼻音】
呼気が鼻腔へ流れ出て発せられるガ行の子音。現代東京語では、原則として、語頭以外のガ行音に現れる。例えば「カガミ」のガ、「ニンゲン」のゲなど。ガ行鼻濁音。◆日本語の標準的な発音で、音声記号では[ŋ]で表す。仮名表記では普通の濁音と区別しないが、必要に応じて「゛」の代わりに「゜」を用いて「カカ゜ミ」「ニンケ゜ン」などとする。
_デジタル大辞林 より
なんとなくイメージが付きますでしょうか?
よく言われるのが、音の前に小さなンを発音するイメージ、というかんじです。
子音は、空気の流れを遮ることによって生まれます。
(合っているかわからない例えをすると、口の中を自然な形に保ったままため息をついてもなにも子音は生まれませんが、ため息をつくときに唇や舌の位置を変えると出てくる音が変わるのを実感しやすいのではないでしょうか…だいたいそんなイメージです。たぶん。)
子音をつくるときには、
1.調音点(どこで空気の流れを阻害するのか)
2.調音法(どれくらい空気の流れを阻害するのか)
3.声帯振動の有無(有声か無声か)
4.鼻音性の有無
の4つの基準に基づいて区別されます。
一般的に、英語の子音体系は以下の表のように示されます。
|
調音点 | 両唇 | 唇歯 | 歯間 | 歯茎 | 硬口蓋 歯茎 |
軟口蓋 | 声門 | |||||||||||||||||||||||||||
調音法 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
閉鎖音 | 無声 | p | t | k | |||||||||||||||||||||||||||||||
有声 | b | d | g | ||||||||||||||||||||||||||||||||
摩擦音 | 無声 | f | θ | s | ʃ | h | |||||||||||||||||||||||||||||
有声 | v | ð | z | ʒ | |||||||||||||||||||||||||||||||
破擦音 | 無声 | tʃ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
有声 | dʒ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
鼻音 | m | n | ŋ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
側音 | l | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
半母音 | w | r | j | ||||||||||||||||||||||||||||||||
(これ表の貼り付けうまくいけてるんだろうか…)
この中で鼻音の部分を見てみると、[m][n][ŋ]の3種類であることがわかります。
・鼻音とは?
たとえば、鼻をつまんだ状態で上の表に載っている子音に母音[a]をつけて発音してみてください。
鼻音に当てはまる音を発音するときだけ、鼻が振動しているようなかんじがありませんか?
これがいわゆる鼻音と呼ばれる空気の流れが起こっている証拠です。
ガギグゲゴを発音するとき、喉から口にかけてだけで音を完成させようとすると、鼻への振動がなく発音できると思います。これが[g]。
ですが、ちょっと意識的に空気を上側に響かせるようなイメージでガギグゲゴと発音すると、[m]や[n]と同じように鼻が振動しているような感じがあると思います。これが[ŋ]。
・軟口蓋とは?
もしお手元に鏡があれば、[ka]と発音するときの舌の位置を見てみてください。
舌の奥のほうが、口の上側にくっついて、舌をもとの位置に降ろすときに息を勢いよく出すことで、[k]の音が生まれていることがわかるのではないかと思います。
そのときの、舌がくっついていた口の上側の部分が、軟口蓋です。
[k][g][ŋ]は軟口蓋にセットした舌をパッて降ろすときに生まれる子音である、ということです。
さて、軟口蓋鼻音の[ŋ]がどういう音か、伝わりましたでしょうか…?
●歌の中で現れる鼻濁音
先ほども書いているように、日本語では[g]も[ŋ]もガギグゲゴの表記でひとまとまりにすることが多く、日常生活の中で使い分けを求められる場面はあまりありません。
ですが、いくつか特殊な場面では、あえて、ガ行の音を[ŋ]で発音することを求められることがあります。
例えば、アナウンサーは鼻濁音を練習する、という話を聞いたことある人は多いのではないでしょうか。
なぜ鼻濁音が好まれるかというと、ざっくりと言うと「響きが美しいから」「雑味が少ないから」のようです。聞き心地がいい響きである、といったところでしょうか。この点はあとでもう少し触れます。
もうひとつ、鼻濁音を意識する場が、歌唱場面です。特にクラシック音楽やオペラ、合唱などでの歌唱では鼻濁音がより意識されることが多いのではないかと思われます。
今仲(2008)によると、西洋音楽ではよりノイズ的傾向のある波形を持つ楽器を避け、クリアで周期的な音を求める傾向にあるといい、それと同じことが人間の声にも求められる、といいます。
人間の声で音楽的に美しい、周期的な音の要素を最も強く持っていると考えられるのが、母音であり、ついで、共鳴音、阻害音、です。
阻害音 | 鼻音 | 流音 | 渡り音 | |||||||||||||||||||||||||||
音声記号 | p | b | f | v | θ | ð | t | d | s | z | ʃ | ʒ | tʃ | dʒ | k | g | h | m | n | ŋ | r | l | j | w | ||||||
子音性 | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | + | - | - | ||||||
共鳴性 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | + | + | + | + | + | + | + | ||||||
鼻音性 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | + | + | + | - | - | - | - | ||||||
有声性 | - | + | - | + | - | + | - | + | - | + | - | + | - | + | - | + | - | + | + | + | + | + | + | + | ||||||
閉鎖性 | + | + | - | - | - | - | + | + | - | - | - | - | + | + | + | + | - | - | - | - | - | - | - | - | ||||||
継続性 | - | - | + | + | + | + | - | - | + | + | + | + | + | + | - | - | + | + | + | + | + | + | + | + |
上記の表をご覧ください。
[g]と[ŋ]を比較すると、子音性と有声性は両方ともにありますが、共鳴性と鼻音性、継続性が[ŋ]のみにあり、閉鎖性が[g]のみにあるということがわかります。
特にこの共鳴性という特徴が、音楽的に美しく、阻害音よりも声道が広く保たれた状態で発声される音であり、そのため歌うときには[g]よりも[ŋ]が好まれるのだと思われます。(詳しいことは声楽に詳しい方、頼みます。あくまで子音の特徴、っていう話。)
アナウンサーの発音で鼻濁音が好まれるのも、[ŋ]の音にこのような特徴があるため、耳馴染みがよいのだと考えられます。
●佐野さんの『オレンジ』
……ようやくこの話が来ました。笑
①鼻濁音
まずはもちろんここです。じゃなきゃこれまで書いたことなんなんだって話だし。笑
2番Bメロ
"歯がゆい旅路の途中で寝転んだね"の「が」
ラスサビくらい
"出会えることがあるのなら"の「が」
ラスサビ
"なにより2人がここでともに過ごした"の「が」「ご」
で、鼻濁音をかんじたんです。
気になって、これまでのAぇさんの歌とか聞きなおしてみたのですが、やはり佐野さんの鼻濁音ってあまり見つからなくて。
佐野さん、どちらかというと、普段の歌い方は「アの母音」と「無声子音」がハッキリしている歌い方な気がするんです。
例えば、『オモイダマ』のソロパート。
"オモイダマ今空へ駆け上った
それはあの太陽より眩しかった"
のところ。"空"のsの子音とか、"駆け上った"のk,tの子音とか"あの太陽より"のアの母音とか。
あとは、『White Love』のソロパート、
"恋の香りを運んで"
のhの子音。記憶の中で再生してもハッキリ聞こえる。脳内再生めんどいからはよ円盤化してくれ(どさくさ)。
吐息ともまた違うけれど、ハ行じゃなくても佐野さんの歌声って子音と母音のあいだにhの呼気音が挟まれることが多い気がします。私個人の感じ方ですが、それによって柔らかさというか優しさというか…歌としての柔らかさというよりは語りかけるような柔らかさみたいな、そんなかんじがするんです。言うなればシチュー。あったかくて、優しくて、いろんな味がふわっとぎゅっとつまった美味しさ(急に何)。
でも今回の『オレンジ』は、私の直感的な感想は「炊きたてでひと粒ひと粒が立っている新米」のような歌声だったなあ、って。しかもいままで食べたことなくて涙が出るくらい美味しいお米。え?なにこれ?って思いながらずっと噛み締めていたいお米。
ひとつひとつの音が丁寧に薄いゼリーに包まれているような心地よさで。その理由のひとつが鼻濁音だったなあって。あとは[ŋ]だけじゃなくて他の鼻音もとても心地よくて。普段なら"nha"(呼気を含んだナ)になりそうなところが、"nna"(母音アを発音する前にnの子音が響くようなナ)だったような気がするところがいくつかありました。
…一応断っておきますがnhaとかnnaなんていう表記は言語学にございません。今私がつくりました。
②イ母音の口の形
鼻濁音の他にもうひとつ気になったところがありまして。
佐野さん、イ母音の歌い方が2種類ある。
私の中で佐野さんのイ母音の歌い方のイメージは、『オレンジ』でいうと、最後のほうの"消えないように"なんです。微笑むように口の形を横に開くイ。
でも今回の『オレンジ』で1,2番ともにAメロあたり、音が低い部分("町に輝いている"の"ちに"とか"い"とか)のイ母音が、ウの口の形でイを発音するみたいなかんじだったんです。
今までそういう歌い方見たことなかった気がするなあって思いました。
……なんのオチもないんですけど。これも声楽的になにかあるんでしょうか。有識者~~~~~~!
(余談ですが…。
これ下書きに書いた数日後にミュージックフェアを見たのですが、松下洸平さんがまさにこのウの口の形でイ母音を歌っていらして、これまでそんなことなかったよね!?!?松下さん私の下書き読んだ!?それとも佐野さんと秘密裏にコラボ開始してる!?なに!?してくれ!?ってなりました。荒れました。以上です。はい。)
③"『ありがとう。』"の"あ"
これは、正直今回限りの歌い方なわけではなくて、いつもの佐野さんの歌い方で好きなところが現れていた部分っていうだけなのですが。
以前、マシュマロで佐野さんの歌い方についてこんな感想をいただきました。
「名脇役の「おとなしく、"く"るしんでるよ」などの地声の入れ具合が絶妙なので、話しかけているみたいに聞こえるときがあります」
これ、私めちゃめちゃわかるなあって思って。で、それが今回の『オレンジ』では一番最後の"『ありがとう。』"に現れていたと思うんです。
もちろん歌は芸術作品的な側面もあって、そういう意味では綺麗な響きや耳馴染みのよさが美しく感じられるのかもしれないのですが、こういうところに感情が見えてくるというか、声に表情が現れる瞬間な気がしていて、それが最後の最後の、ありがとう、って歌詞の部分に見えたことが私としては最後のどでかい涙腺崩壊爆弾だったんですよね。
④自作MV『オレンジ』
いやこれはさ、もうさ、終わったと見せかけてまた涙腺への猛攻撃をしてきたな、と思ったわけですよ。
このはてブではあくまで歌声にだけ触れますが。
この動画での歌声、これが、少なくとも私の思っている、「いつもの佐野さんの歌声」なんです。
そんな、2つとも聞かせてくださるなんて贅沢な……と恐れおののきました。
柔らかくてあったかくて。hの子音が柔らかく立っている佐野さんの歌声での『オレンジ』も、やっぱりすごく素敵だなあ、って思いました。
⑤余談。
……結局、佐野さん、「じてんしゃ」って言いました?「じでんしゃ」って言いました?
●終わりに。
唐突に終わるやん、と思われた方。
私もそう思います。
いや、なんかね、佐野担でもなく声楽をしていたわけでもない私がなにを語ってんねん、とふと冷静になってしまって(なら書くなや)。
でもなんとなく、というか、だからこそ、かな。
随分前にはてブに書いたのですが、私にとって、分析したい、っていう感情って何よりの愛情表現なんです。
だから、佐野担じゃない人間にも、こんなにも響いているんだっていうことが、少しでも伝わったらいいなあ、って思って書きました。
私はいつもの、佐野さんの呼気の混ざったシチューのようなあったかくて柔らかい歌声も、
今回の『オレンジ』のような、一音一音が立った炊き立ての新米のような歌声も、どちらも本当に大好きです。
どっちが美味しいとか、言うつもりはありません。なんなら一緒に食べたいくらいです。(これは単純に「シチューと白米を一緒に食べるのか論争」始まりそうなので黙ります。笑)
だから、これからももっと、佐野さんの歌声をいろんな場所に、欲を言えば、ファン以外の人にもたくさんたくさん、届きますように、って、ひとりのAぇ担として思っています。
ではまた。気が向いたときに、思い出したようにつらつらと書きに来ます。
ありがとうございました!
参考文献
(ごめんなさい、URL載せるだけで…論文形式守れてない……そもそも論文形式の参考文献の書き方忘れた……)
今仲昌宏(2008)「声楽のための英語発音法に関する分析(1)」東京成徳大学『研究紀要』15,pp29-37
今仲昌宏(2009)「声楽のための英語発音法に関する分析(2)」東京成徳大学『研究紀要』16,pp23-34
今仲昌宏(2010)「声楽のための英語発音法に関する分析(3)」東京成徳大学『研究紀要』17,pp1-15
http://culture.cc.hirosaki-u.ac.jp/english/utsumi/linguistics/lingusitics_c3_ja.html
https://utaten.com/karaoke/technique/nasal-resonance/
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/030.html
https://talknavi.co.jp/commu/nasal_noise/
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/20170401_6.html
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/002.html
https://news.livedoor.com/article/detail/11918510/
自分のために、"好き"を大切にしよう、って思っているお話。
●はじめに。
これは、私があらゆる沼に落ちる自分を認めてあげるためのブログです。
……なんの脈絡もなくすみません。
ちょっと、なぜか突然文章書きたい欲が沸き上がってきてしまったのです。
お時間あればお付き合いください。
●自分の"好き"に誇りを持って生きていたい、という気持ち。
これは、私が常日頃から思っていることです。
なぜそう思うようになったかは、うーん、たぶんいろんな要因があると思います。
大きい要因は、実家暮らしだった頃の反動かな。
私は中高と演劇部でめちゃくちゃ楽しく過ごしていたのですが、母親はあまりいい顔をしませんでした。たぶんですが「演劇=打ち込んで他のことが見えなくなる」みたいなイメージがあったんだと思います。
進路についても私の意見と違うことが多くありました。最後の最後まで私の意志とは違うことを言われ続けて、ただでさえメンタル疲弊しているのになんで…、とよく思ったりしていました。
中学生のころはアイドルが大好きで、AKB、SDN、エビ中、スパガ、チキパ、ポッシボー、さくら学院、などなど女性アイドルをゆるーく応援していましたが、それを親に言ったことは一度もなかった。
だって、否定されるから。
ご飯食べながらMステの録画を見ていて、エイト兄さんはじめジャニーズのときに「あー、飛ばすね」って勝手に飛ばされることも毎度のことでした。私はそれをわざわざ、「いやだ!見たいから飛ばさないで!」っていうほどの強さもなかったですし、一緒に見ながらやいやい言われるのが苦痛だったので我慢するしかなかった。
こういうときに、文句を言うのは簡単だと、私は思っています。
人の趣味を踏みにじらないでよ、なんでわかってくれないの、私の意見も聞いてよ、って、そう言うのは簡単で。まあ実際そう思っていた節もなかったと言ったら嘘になります。
でも、どこかで、当時の自分は自分の持っている"好き"という気持ちに自信がなかった、っていうのもあって。
可愛いから、かっこいいから、面白いから。もちろんそれでじゅうぶんなのかもしれないけれど、そのときの自分はそれを親をはじめ他人に伝えるだけの熱量と説得力を持てずにいた、というか。
だからずっと、こっそり、よくないものを嗜むかのように、自分の好きなものを隠れて楽しむ日々でした。
それが、大学に入りひとり暮らしをはじめたことで世界が一変しました。
好きなお芝居を観に行ける。
好きなアーティストのライブに行ける。
レイトショーの映画を観に行ける。
役者さんや監督さんとお話をする機会に巡り合える。
同じ趣味を持つ方々と一緒に盛り上がることができる。
とんでもなく私のこれまでの世界が狭かったことを知りました。
たったそれだけで?と思う方もいるかもしれません。
でも、本当なんです。
自分の好きなことがあって、それを追いかけることで少しだけ日常生活の"外"に出ることができて、そうするとこれまで出会ったことない人にたくさん出会えて、自分の想像したこともない経験をされた方々のお話を聞いてまた世界が広がって。もともとの好きなことからは最終的に外れているような新しい世界まで知ることができたんです。
そうして、私は、自分が好きなものを追いかけていることが、自分にとってとてつもなくプラスに働いていることを、はっきりと自覚しました。
仕事と趣味、という対比をすると、どこか趣味は蔑ろにされがちで。
リフレッシュのためのもの、ストレス発散、イマドキのことばで言えば"不要不急"なものだと扱われることもあって。
でも、私にとってはそんなもんじゃないよ、って。
好きな役者さんがいて、その人が出演するドラマを見て自分の知らない職種や経験したことない感情を知ったり、その人のインタビュー記事を読んで自分の価値観を改めて考えさせられたり。
好きなアイドルがいて、その人が出演するバラエティ番組を見て立ち居振る舞いの仕方に尊敬する点を見つけたり、年齢が近い方だったら、自分と同じ時間を進んでいきながら変化を見せてくれることに刺激を受けたり。
もちろん人だけじゃなくて、たとえば言語学だって、いろんな知識を身につけるほど人と話すこと、人の話を聞くことが楽しくなってくるし、相手への伝わり方や相手のことばの伝えたい意図を人一倍考えながら会話できているんじゃないかな、って思うと、きっとそれって前向きな変化だよなあ、って感じる。
ものすごく長くなってしまったけれど、だから私は、自分の"好き"という気持ちには常に胸を張っていよう、って、思っています。
誰にも否定させねえぞ、って気持ち。
●他人の"好き"にも敬意と興味を持っていよう、という気持ち。
上記の内容の延長線上、というかんじなんですけど。
"好き"という感情と、それを伴う行為が、自分にとってとても有益なものであるのかと気づいた私は、自分の気持ちはもちろんだけれど、他人の"好き"も大切にしたいな、と思っています。
とはいえ、応援の仕方が自分とは違っているとか、魅力的なのかもしれないけれどどうしても苦手とか(私は痛い描写とか心臓に悪い描写が苦手なので、どれだけ素敵でもホラー作品は応援できねえ…みたいな)、そういうことはあります。
それでも、その人が何かを好きでいる姿は絶対否定したくないし、その人が自分の好きなものに対して誇りを持っているんだなあって感じると、素敵だなあって無条件にその人のことを好きになってしまいます(単純すぎる)。
もっと言うと、その人が胸を張って好きだと言っているものはどんなものなのだろう、と興味を持つようにしています。
時間やお金の都合で深堀りできるときとできないときがありますが、そういうふうにして自分の世界を広げていくことができたら、とても素敵だと、私は思っているんです。
自分の価値観、自分の見ている世界が絶対的なものではない、って思うようにすればするほど、じゃあどんな世界があるんだろう、って気になって、ふと目についた他人が語っているものが輝いて見えたらすぐに手を伸ばしてしまう、なんかそんなようなかんじ。
●だから沼が増える。
……今、ここまで読んでくださった方が、一斉に眉をひそめる姿が脳裏に浮かびました。
そういうまとめでいいのかよ!?と思われた皆様、
いいんです。そういうブログなので。
一途に、ひとつのものを好きでいつづけることができる方は、本当に素敵だと思っています。
でも、誤解を恐れずに言いますが、「一途でいることが最大の愛情表現ではない」と私は思っています。
(あ、いや、愛情を向けられる側にとっては一途でいてくれたほうがもちろん嬉しいのかもしれないですけど。そのへんはわからないですが。)
"好き"っていう感情があればあるほど、自分の世界って思ってもみない方向に進んで、ひらけていくんです。きっと、私もまだ知らないくらいの方向に。どんどん。
だから私は、ただただ自分のために、"好き"をたくさん抱えていたいなって、思っているんです。
他人がどう言おうと知ったこっちゃねえ。私は自分のために、自分の世界を広げたいんだよ。って。
私はたぶん、一途に何かを好きでいることが苦手なのだと思います。
だってもし何かのタイミングで失ってしまったとき、立っていられないからね。
でも、そういう後ろ向きな理由から浮気性(あえてこういう言い方するけど)なわけではないんだよ、っていうことが、少しでも伝わればいいな。
●おわりに。
最後までお読みくださったみなさま、ありがとうございます。
なんだか衝動的に書いたはてブでございました。
好きな人、好きなもの、好きな学問、好きな仕事、
どういう姿勢でその"好き"に向き合うかは、人それぞれだと思います。
私は他人のそれを否定したくないし、自分のその姿勢を否定されたくねえ。
だって所詮好きって気持ちは自己満足なんだもん。
そりゃもちろん、自分の"好き"が本人に届いてなにかエネルギーになったらそれほど幸せなことはないけれど、届けるために何かを好きになるわけではないな、って、私は思っています。届くかどうかはあくまでプラスαの物語でいい。
私は、自分の好きなものにしっかりと誇りを持っているし、
たとえそれを他人に理解されなくてもいいけれど、絶対に否定はさせない。
そういう、ひとつの自己表明です。
こういう人もいるんだなあ、って思ってくださる方もいるかもしれないし、自分も似ているなあと思ってくださる方もいるかもしれない。もし誰かひとりでも、よくわかんないけどちょっと心軽くなったかも!って思っていただけるようなブログになっていたら最高ですね。
ではまた。気が向いたときに、思い出したようにつらつらと書きに来ます。
ありがとうございました!
『染、色』観劇体験で生まれた感情。
●はじめに。
そもそも、私はお芝居の"考察"は好きじゃない。もちろん演出や脚本の意図はあるだろうけれども、それを掴めたら正解、違っていたら間違い、なわけじゃないのに、考察だとどっかで正解を探してしまうような気がしているから。
でも今回はどうしても書きたかった。考察じゃなくて、ひとりの観客の"感想"として記録したかったし、それを留めておかずに誰かに読んでみてほしいと思った。
読み手を意識せずに書いている、私の中にあることばの垂れ流し。共感を求めてはいないけれど共感してくださる人がいたら嬉しい、みたいな、自分勝手な文章。
●『染、色』感想
多少なりとも創作活動を行う者として、ひたすらに苦しかった。「死にきれなかった」っていう深馬のことばが耳に焼き付いている。
「作品をつくることが生きる方向になる」っていう中川監督が昨年ワークショップで話していたことば、「脚本は遺書であり、制作期間は生きる猶予」っていう塚田監督のTwitterでのことばを思い出しながら観ていた。創作って、比喩じゃなく、本当に生命に影響すると私は思っている。
身体の中に生まれる衝動をどんな形で表すか、深馬にとっては絵で。
衝動のままに描くことができていた幼少期、期待をかけつづけられた思春期、そして社会に出る直前の学生時代の深馬。才能がある、って周りから思われている人は、もしかしたらそれを自覚するのがものすごく難しいのかもしれない。だって才能の基準なんてないもん。
真未は彼の中で乖離した"才能"だったのかな、って私は思っている。
期待に応えるために葬り去っていた"才能"。
自由で、常識に囚われずに、直感のままに走り回る。器物損壊罪?そんなこと知らない。描きたい絵を、描きたい場所に描く。それが人生のすべて。そういう"才能"。深馬はその才能を制御しきれなかったんじゃないのかな。
自分のつくっていた作品を自分の手で殺めてしまったことも、彼の本能的ななにかが叫んでいて抑えきれなかったんじゃないかな、とか。
これは本当に想像にすぎないけれど、時間をかければかけるほど、その作品の中に自分の魂とか生命そのものが含まれているような気がしてくるんじゃないかなって思っていて。そこに満足してるかしていないかじゃなくて、どんどんその作品が"自分"になっていく過程ってきっと言葉にならない恐ろしさがあるし、もし他人にその作品を否定されるようなことがあればそれは自分の存在否定にもなってしまう。真未は、自分のつくった作品ではなく深馬がつくった作品を殺した。真未の中にはきっと、時間をかけて構成を練るというスタイルが存在しない。だからこそ、ゆっくりと深馬がその作品に没入していく姿が気持ち悪くもあり、苦しそうでもあって、深馬のために作品を殺した。"才能"が"抑圧されている自分"を殺そうとした、のかなあ、って。
ふと思ったけど、殺めることで"生きていた印"にもなるのかもなあ。残酷すぎる考えだけど。
将来を考える中で、ジワジワと無意識に"評価される作品"に囚われ続けていた深馬がいて、就活というルートを歩む杏奈が隣にいることでより"評価"に敏感になって、万人に響くものを模索して、衝動を抑え込んで。だからいつも中途半端になる。本当に心の奥で表現したいものを表現したら、繊細ななにかが壊れてしまう。壊したらいけない。死なない作品をつくりつづけることが大切なんだ。そうやって、抑えて、抑えて、満足できなくて苦しくなって、無意識のうちに才能という名の衝動が爆発してしまう。そんな危険さが彼にはあった気がする。
スプレーをひとつ隠された真未が発狂するところ、悪戯が悪戯にならない、どうしてもこれじゃなきゃダメ、という拘り、魂の叫び。どうしてそんなに発狂するのかわからない深馬。絵を描く人間にとって画材はきっとなにより大切なものだろうに、なぜ深馬はそんな悪戯ができるのか、って考えたときに、大人になる過程で抜け落ちた衝動のせいなんじゃないかって、やっぱり思うの。野生的な衝動は協調性を求められる社会生活には必要ない。大人たちのことばを幼い頃から浴び続けてきた深馬はその考えを刷り込まれていたんじゃないだろうか。欲しい色がなければ別の色で、今あるものでできる表現をする。そういう落ち着きが求められていたんじゃないだろうか。
たぶん真未は、表現したい赤色が絵の具で表現できなければ、自分の身体を切って血を流してその朱を使うくらい、欲しい色に執着するんじゃないかな、って思う。
黒ずくめの真未。真未に出会い、黒い服装になる深馬。
黒、って、闇のようなイメージもあるし、無数の色を重ねて抱えている色とも言える。真未の中には、名前もまだないような色がたくさん、たくさんあるんだと思う。黒、って怖そうとか怪しいとかって負のイメージを与えかねないけれど、たとえそうやって誤解する人がいるとしても、万人に受け入れられないとしても、自分が欲する色は全て抱え込んでいるのが真未なのかな。
真未と出会って、一色で描いていた深馬の絵がどんどん色鮮やかになっていって、どんどん色を重ねて深馬自身も黒を纏っていく。黒く染まっているわけじゃなく、衝動のままに色を重ねていってるんだと思う。色が表現力だとしたら、色を重ねれば重ねるほど感情も複雑化して増えていくのかもしれない。深馬が人間らしくなったのは、色を覚えたからなんだと思ってみたり。
逆に、ポリダクトリーを、深馬の才能を羨み、妬み、模倣しようとした滝川はその黒色を見誤ったんじゃないか、って思ったっていうか。真未と深馬の持つ"黒さ"を"黒一色"だと思ったんじゃないかな。上手く言えないけれどなんか、そんなかんじ。
真未と身体を重ねる深馬。真未がいなくなって、いなくなった影を探し求めるように自分の手で快感を求めるけれど果てることのできない深馬。
この作品の中で、性的な描写が何を表しているんだろうって、考えている。私は、だけど、観ているときにはものすごく自然に受け入れていたというか、今自分で「性的な」って書いたことに違和感を覚えるような気持ちで。うーん。快楽を求めるという点ではきっと表現活動と同じ衝動なんだろうなと思うし、深馬が真未を求めずにいられなかったのは、自分にないものを持っている真未がどうしようもなく魅力的だったからなのかな、とかも思うし。愛情を伝えるための行為というよりは、自分の歪な部分とか抜け落ちている部分を埋めるための行為、みたいな。
真未といる瞬間の快楽を覚えて、無数の色に染まっていく、もしかしたらどっかで背徳的で、でもそれが余計に心地良いような、そんな感覚を手にした深馬。真未がいなくなって、必死にその影を探しながらもう一度同じような快楽を得ようとしても同じ場所までたどり着けないのも、そりゃそうだよな、って思う。
正確な台詞は覚えていないけれど、「明確な不幸と明確な自由」を持っている真未に羨ましさを覚える深馬と、深馬を「恵まれている」と表現する真未、どちらの気持ちもものすごくわかって苦しくて泣いた。
読み飛ばしてください。自分のためのメモ。
過去の私もこんなこと書き残してた、って話。
「私は幸せなんだろうか?
幸せだからこんな贅沢な悩みに苦しむんだろうか?
他人と比較し始めたら止まらない。
私が世界のトップに立てるランキングなんてない。
そこそこの幸せとそこそこの不幸を持ち合わせて
そこそこに生き延びてる。
幸せを語るほどの魅力もなければ
不幸を嘆くほどの度胸もない。」
自分のことを客観的に見ることなんてどう足掻いてもできなくて、自分にないものが羨ましくて仕方ない、って自覚する度に自分の人間的な汚さに嫌気が差したりする。
杏奈は、素直に深馬の姿を尊敬していて、もちろんことばに表れる感情がすべてだとは言わないけれど、とても対照的だなあって思った。し、すぐ近くにいる他人からあんなにまっすぐ尊敬されるのは苦しくもあるんだろうな、とも思った。近くにいる人って、自分のことを理解してくれているだろう、って思ってしまうけれど、そんな理解者が自分のことを凄い人だって評価するのであれば、"そう"でなきゃいけないような圧迫感を抱いてしまうこともあると思うんだよな。人によるんだろうけど。
●正門さんについてのお話。
直接的な物語の内容とは離れるけど、あの2時間10分で、私の中での正門良規像が、なんか怖いくらいに深い色を増したかんじになった。
最初、話し始めた瞬間に、私この人の舞台に立っている声が好きだな、って、声聞いて心臓が痛くなった。
テレビ越し、マイク越しじゃない生の声(まあ多少の集音マイク?みたいなのはあるかもしれないけど)。で、たぶん舞台の発声。
もともと落ち着く声で素敵だなあって思っていたけれど、正直比べ物にならないくらいに舞台に立っている声が深いというか、厚いというか、ものすごく感覚的な表現をすると深い藍色の海の色みたいな、なんかそんなふうに感じて、身を委ねたくなった。
かと思えば、"笑い"で表現される物悲しさだったり諦念だったり残酷さだったり、ポジティブではない感情があの笑い声から伝わってくるたびに手が震えそうになってハンカチをぎゅーって握りしめていた。怖かった。舞台全体が見えるような席だったから、細かい表情までは見えなかったのに、あの笑い声だけで深馬の内側にある鋭利な部分とかことばと裏腹な感情とかが伝わってくる気がした。
これまで何万回も言ってるけれど、私が一番初めにAぇに出会ったのは、『スカーレット』の鮫島で。しかも、鮫島を演じている人がジャニーズジュニアだと知ったのは4月に入ってからだった。ただ、鮫島の登場1日目に、めちゃめちゃ好きな役者さんだな、って感じたのをはっきり覚えている。少し不純な動機かもしれないけれど、なんとなく鮫島の表情や話し方が、私の知り合いの役者さんに似てたっていうのも理由のひとつ。うわ、こういうお芝居する人、あの人(知り合いの役者さん)以外にもいるんだ、って興味と無条件の好意を抱いたのが鮫島だった。私にとって正門さんの第一印象はアイドルでもリア恋の人でもギタリストでもなく、素敵な役者さん、だった。
で、そんな正門さんだから、お芝居ももちろん好きで。でも、これまでドラマとかグレショーとか見ていても、こんなに心をぐちゃぐちゃにされたことはなかったんだよな。落ち着いて、見ながら、ああ正門さん好きだなあ、ってかんじだったのに、『染、色』はもうまったくそんなこと言っていられなかった。一緒に行った正門担さんに申し訳ないくらいに泣いてしまった。これだけ泣いたのは、2月に大竹しのぶさんと林遣都さんがメインで出演されていた『フェードル』を観たとき以来、人生で2度目なの。松下さんのお芝居観たときですらあんなに泣かなかった。
悔しい。こんなに心をつかまれて、苦しめられて、ぐちゃぐちゃにかき回されて、観劇から2日経っても思い出すたびに心臓が痛くて、
それでいて、そんな言いようもない快感を得てしまっていることが悔しくてしかたない。
●自分の話。
これはもう完全に自分の話として。
最初に書いたように、私はお芝居の考察は好きじゃない。自分が感じたものを間違ってるよって言われたら嫌だし、自分の感じ方を無意識に人と比べたり比べられたりするのはつまらない以外の何物でもないと思っている。
それでも今回は書きたくなった。書いて、誰かに読んで欲しいと思った。
なぜかって思うと、ひとつには、こういうふうに受け止めた人もいるんだよ、っていう意思表明。
もし万が一にも共感してくださる人がいたら、その人の感情を掬い上げたいし一緒に掬い上げてほしい。
基本的に私は自分が感じたものがすべてだと思っているから、自分が感じていた(けれど言語化しきれなかった)感情を表現している人に出会えたらめちゃくちゃ尊敬するだろうし、自分と違う意見の人がいたら、面白いなあとは思いつつ、それで自分の考えを修正するつもりはない。そんな人間の感想なので、みなさんもそんなかんじで読み流して欲しいな。
で、もうひとつ、書き留めて、公開しようと思った理由は、どうしても深馬や真未が抱えている衝動的な欲望に共感せざるを得なかったから。
私が最近、というか、ずっとずっと前から抱えていて、でも抑え込もうとしていて、もう抑えられなくて創作意欲に昇華させようとしているなんかモヤモヤとした衝動がある。その中身としては、深馬や真未とはまったく異なっているんだけれど、でも衝動を身体の中に飼っているようすっていうか、2人が壁に絵を描くときの悲しくなるくらい軽やかで伸びやかな動きとか、この色じゃなきゃ嫌だって声にならない声をあげる苦しみとか、不意につくりあげていたものが崩れて笑ってしまう虚しさとか、よくわからないけれどそういうところがすごく自分に見える瞬間があった。だから私は、『染、色』の感想を書いているふりをして自分の話をしたかったのかもしれない。こういうふうに感じた、ってこれまで長々書いてきた内容は、全部じゃないけれどどこかで私の普段考えていることだったり、自分の描写としては語れない自分の叫びなのかもしれないなあ、なんて思ったり。
だってほら、私、深馬と真未の話しかしていない。本当は全員のことを考えるほうが偏りのない感想になるんだろうけれど、どうしてもあの2人に感情移入してしまっている自分がいるの。感情移入しているっていうか、あの2人のことを書きたい。偏っているかとかいうのはこの感想の論点と違う、なんてことすら思ってしまう。よくない。
私のこの感想の中では、解決していない部分がたくさんある。
どこまでが現実なのか?真未は"いた"のか?最後、真未の服装が白かったのは?なぜ、なぜ、を考えるとまだまだたくさん出てくるんだと思う。
原作との共通点、差異が示す意味はなんだろう、とかもある。描いていた絵が示す意味、名前、使われていた色、きっといろんなところにいろんな意味があるんだろう。
でもね、個人の意見、私の意見として。
私はここに書いたことを感じられただけで、十分だと思っているし、ものすごく充実した観劇体験になった。
板の上の世界を味わい、没頭し、もみくちゃにされながら自分の感情を動かす、それだけでいい。それが私にとって最高の観劇。
都合のいい解釈だと笑う人は笑ってくれよ。
これは、私の、私のための感想。
言語学好きの私が福本大晴さんに落ちる運命のお話。
●はじめに。
こんにちは。こんばんは。お久しぶりです。
ご来訪いただきありがとうございます😊
さて、今日は、私が福本大晴さんを応援してしまう理由を徒然なるままに書き綴ろうと思います。
え、いつもとテーマの雰囲気違うじゃないかって思いました?
安心してください。
もちろん、言語学的視点から、です。
(安心するのか?)
この人ちぇ担だったのか、と思われているんじゃないかという私、
ちぇ担のフォロワーさんがあまりいないちぇ担代表の私、
まあたぶんこんなことしてるから少ないんだろうな……笑
ちぇ担の方にとってはもしかしたら新鮮な視点かもしれませんし、言語学に興味のある方にとっては私がちぇ担である理由が伝わるんじゃないかなあ、と思います。
楽しんでいただければ幸いです!
●大晴くんが持つ"ことば"への意識。
私自身、これまであんまり雑誌を買いあさったりすることってなくて、今でも全部買ってるわけじゃないので、過去の記事は知らないし見逃しているものもあるかと思います。
でも、少なくとも私が知っている範囲で、この半年くらいの大晴くんのインタビュー記事では他の人と比べて高確率で"ことば"への意識が語られているような気がします。
そのきっかけになっているのが、『おはよう朝日です』への出演。
アイドルがファンの人へ届けるものってきっといろいろあるんだと思います。
笑顔、歌声、ダンス、お芝居、ステージに立っている姿、喜びの涙、とかとか。
元気をもらったり、一緒になって泣いたり笑ったりする経験そのものも、もしかしたらアイドル特有なのかな、とかも思ったり。そんな語れるほどわかんないけどね。一例として。
でも、情報番組のコメンテーターが届けるものは違ってて。
第一に、できるだけ偏りのない事実を届けなくちゃいけないんだと思います。
そして、そういった今起きている事実を踏まえた上での自分の意見。
たとえ"アイドル・福本大晴"という肩書きを持って出演しているとしても、アイドルとして普段届けているものを発信すればいいわけじゃないのは確かで。
事実や意見を伝えるのには、笑顔や立ち姿だけでは不十分で、"ことば"がないと伝わらない部分が絶対にある。
アイドルだってもちろんことばで思いを語る瞬間はたくさんあるけれど、コメンテーターの場合はたぶん届けるもののほぼ100%が"ことばから伝わる情報"なんじゃないかな、って、思います。
なんて、ここまではあくまで私の個人的意見でした。
じゃあ大晴くんがどう感じているか、というところ。
"言葉に対しての意識が高まりました。たぶん現役大学生の生の声を届けたい、ということで僕が抜粋されたわけで、思ったことを噓なく素直に言うのがいいと思うんです。でも僕のコメントで傷つく人がいたら絶対にいけない。言葉の使い方とか表現の仕方ひとつで受ける印象ってめっちゃ変わりますから、結構気をつけています。"
anan 2021年1/20号(2021.1.13発売)より
"それから、「おはよう朝日です」をやらせてもらって、すごく感じるのは、前に立つ人間として言葉づかいはめっちゃ大切ってことですね。言葉づかいで人のオーラって決まる感じ、しません?話し方でその人の性格とか人柄がわかるというか。同じ意味でも受け取る側が傷つかない言い方とかって絶対あるし、相手に対して失礼にならない言葉づかいもある。これは"おは朝"で共演している周りの人たちを見て、勉強したことです。"
STAGEnavi vol.54(2021.3.27発売)より
"情報番組の時はまず新聞を読んで、ネットニュースも確認して、コメントする時は1回自分の中で言うことを落とし込んでから言うように気を付けてます。"
Stagefan vol.12(2021.3.27発売)より
言語学オタクとしてひとこと言わせていただきますとね、
こんなん惚れる以外の選択肢ないやん(怒)
いやほんとに、これらを読んだとき自分でも引くくらい泣いたんですよね。
というのも、言語学をしている方はわかってくださるかもしれないのですが、ことばって毎日使用しているものなのにどこかないがしろにされがちというか、わざわざ目を向けることのないもの、っていう扱いをされているように感じることがあるんです。
それこそ、他の人たちのインタビュー記事を読んでいてこんなに真摯にことばについて語っている方、なかなか見つけない気がします。
でも、ことばって研究すればするほど奥が深いし、面白いし、複雑だし、なによりすごく危険なもの。
私はその面白さをずっと追求していきたいし、その危険性を意識していきたいし、ことばの不自由さを少しでも理解した上でことばを使用していきたいって思って、言語学を続けています。
だからこそ、こうやって"ことば"に意識を持っている姿っていうのは、否応なしに好きになってしまうんですよね。
しかもそれだけじゃなくて、表現ひとつで人を傷つけることもできてしまう、っていう危険性にも目を向けていること。それをこうして雑誌で語ってくださること。なんかもうあまりにも素敵な人すぎてひっくり返りました。
はい。好きです。降参です。
●"ことば"の距離感に敏感な大晴くん。
もうひとつ、私が言語学的視点から大晴くんのことを好きな理由があります。
"レギュラーで出てる『おはよう朝日です』の人たちと仲を深めたい。例えばさりげなくタメ語を使うとか(笑)。まえに番組内で、なにわ男子の『~DREAM PAVILION~』にAぇ! groupとLil かんさいが出たときの映像を紹介してくれてん。そのとき、いつもは「福本くん」って言ってる岩本(計介)アナが、映像を見ながらサラっと「大晴くん」って呼んでくれて。「うわ、うまいな!」って思ったし、うれしかってん。だから今度はオレも、失礼にならないぐらいのタメ語を使ってみたい。"
WiNKUP 2021年2月号(2021.1.7発売)より
まあこれはあれですね、単に私の研究テーマにど被りしてるから、っていう理由でもあるんですけど。
完全に私の一意見なのですが、大晴くんってことば(敬語とタメ語)から得る距離感に比較的敏感だと思うんです。
上記のインタビュー記事もそうだし、それ以外でもいくつか思い当たる節があります。
例えば、Aぇ! group担当のYouTubeジュニアチャンネルでの一幕。
小島さんとの一番の思い出に、「敬語について」って挙げた大晴くん。
(小島さんは大晴くん20歳の誕生日の瞬間を挙げていましたね)
(17'09~)
福本 僕が1年先輩で、で(小島を指しながら)1年後輩で、でも同い年なんすよ
小島 そうそうそう
末澤 そやな
福本 で帰り道がずっと同じで、敬語こいつ使ってくるけど
小島 そりゃね
福本 気持ち悪いし
小島 先輩ですから
末澤 あーはいはい
福本 同い年やのになんか
正門 不思議なもんよね
福本 そう不思議な
これちょっと嫌やわあ、って思って
私はこれを見て泣きましたね。
(泣くエピソード他にもあったやろ)
長い付き合いで、ことあるごとに自分たちの関係性を「友達」と表現するビバちぇですが、その付き合いの中で一番の思い出が、敬語をやめた瞬間、って、めちゃめちゃ素敵じゃないですか……。
小島さんはもちろん垂直距離があるからこそ敬語を使用していたのだとは思いますが、大晴くんは(それが分かったうえで)そこに心的距離の遠さを感じ取っていたこと、タメ語同士の関係になったことでその距離を感じなくなったことを一番の思い出って思っている、なんという素敵な友好関係……
あとは、ISLAND TVのジャニーズクイズ部最終回。
少年忍者の川﨑皇輝くんと初めまして状態の大晴くんの会話(&本髙くんとのエピソード)が個人的に大好きなんですよね…。
(2'13~)
川﨑 福本くんが初めましてなんですよね今回
福本 あ、初めまして
川﨑 初めまして
福本 え、
川﨑 よろしくお願いします
福本 あ、よろしくお願いします
何年入所っすか?
川﨑 えっと2012年の6月ぐらいです
福本 あっ、そうなんや
川﨑 はい
川島 ¥先輩感出してる¥
本髙 先輩面すんなって
一同 (笑い)
本髙 ちゃうちゃうちゃう、大晴さあ、ほんとそういうとこあるマジで
福本 いやいやいや
本髙 僕ともなんか、同期ぐらいだと思ってたらちょっと先輩だったんで
そっからなんか、タメ語でもいい?みたいなかんじで
一同 (笑い)
本髙 先輩ぶりたがるんですよ
福本 や、大切やから、やっぱ
この場面だと、大晴くんのタメ語使用が「先輩感出してる」という風に、垂直関係を示すものだとして捉えられていて、若干マイナス的に捉えられているかんじがあります。
でも私は声を大にして言いたい。
彼は心的距離を縮めるためにタメ語を使用しているのだ!!!!!!たぶん!!!!!!
上記のエピソードからわかる通り、たぶん敬語とタメ語による心的距離に敏感だからこそ、自分がタメ語を使用しても失礼にならない状況では積極的にタメ語を使っているんだと思うんです。
それに「そうなんや」というのは、独り言的発話とも解釈できる、相手への働きかけが弱い発話でのダウンシフト。だから、初対面相手でもそれほど失礼にはならないと考えられるし、きっと大晴くんも直感的にそう思ったんじゃないかなあ。
だから、彼のタメ語使用は好意の現れなんだよ、本髙さん……。
そう、雑誌で言っていたおは朝でタメ語を使いたいってことですけど、着々と使っているんですよね。
それが特に現れてくるのが、月1企画「はっちゃけ大晴」。
いわゆるニュースではなくロケに出て"楽しむ"要素が強い分、ダウンシフトできる場面が多いのだと思います。
よく一緒にロケに行っているのはベテランリポーターの川﨑美千江さんで、この2人にはもちろん垂直距離があるので基本的に大晴くんは敬語を使用しています。
でも、ダウンシフトしても失礼にあたらないと考えられる発話で、よくタメ語になっているんです。
(ハイブリットカーを見ながら)
福本 ハイブリットやからめっちゃ燃費いいってめっちゃ有名ですよね
川﨑 そうよ
だから言うたら大晴くんのすべり芸とイケメンのハイブリットや
福本 ……すべり芸じゃない、よ
(2021.3.15放送『おはよう朝日です』より)
ここでの「すべり芸じゃない、よ」は相手の冗談的発話に対するツッコミの意味があるため、垂直距離がある2者間会話でもダウンシフト可能だと考えられます。
(自転車の試乗後)
福本 漕いでたけどほんまに漕いでる感覚がほとんどないというか
川﨑 へえ
福本 夏でもたぶん汗かかへんくらい
風気持ちいい
川﨑 違うやん
ジャニーズは汗かけへんやろ?
福本 いやかくよ
(2021.4.19放送『おはよう朝日です』より)
ここの「いやかくよ」もツッコミのダウンシフト。
(というか大晴くんの、垂直関係にある2者間会話におけるこの文末表現「よ」のダウンシフトについては改めて分析したい)
ちなみに5月の「はっちゃけ大晴」は一緒にロケしていたのが早坂風海さんだったんですけど、この2人ともに99年生まれなんですよね。
だから、と言っていいのかわかりませんが、この日のロケは大晴くんが終始タメ語使用でもう見ていてソワソワしちゃいました…大晴くんのタメ語使用好き……
あと、逆に、ノリで生まれる一時的な垂直関係にも敏感な大晴くんはアップシフトもサラっとしてのけるんですよね。
例えば再びAぇちゅーぶより。6月のキャンプ初回。
(2'21~)
小島 不安なこととか全部吐き出せるやろ
大晴
福本 はい
小島 大声で叫び
今自分が不安なこと
福本 自分が不安なことっすか
(中略)
福本 リーダー、やっときます?
佐野 やっときや
こことかめちゃめちゃ面白くて。
「神」小島さんに対して即座に敬語を使う大晴くんと、現実の垂直関係を考えたら敬語を使用するはずなのにダウンシフトしている晶哉ちゃん。
Aぇちゅーぶはよくこんなかんじで言語現象観察できるので、そのたびにことばがつくる距離感に敏感な大晴くんを見て好きな気持ちを拗らせています。
(そしてどんどんメンバーにタメ語を使うようになっていく晶哉ちゃんを見て、孫の成長を見ているような気持ちで泣きそうになります)
………なんの話だっけ???(あれ?)
●終わりに。
えーっと……
楽しんでいただけましたでしょうか……
最後までお読みくださったみなさん、ありがとうございます🙇
もちろんこれ以外にも大晴くんの素敵なところってたくさんあるし、理由つけられないけど好きなもんは好きなんだよ!!!!!!っていうバカでか感情生まれることも多々あるんですが、言語学を好きでいる自分が福本大晴という人物を好きになったのってしかたないんだなあ、あらがえないんだなあ…っていう気持ちです。
これを読んでくださっている言語学好きの方、Aぇ! groupの福本大晴さん、全力でおすすめします。はい。
ではまた。気が向いたときに、思い出したようにつらつらと書きに来ます。
ありがとうございました!
引用書籍一覧
anan 2021年1/20号 マガジンハウス
STAGE navi vol.54 産経新聞出版
Stagefan vol.12 メディアボーイ
WiNK UP 2月号 ワニブックス
学ぶってなんだろうなあ、ってぼんやり考えたお話。
こんにちは。こんばんは。
ご来訪いただき、ありがとうございます
さて、今日は言語学の分析はしません。
タイトルどおり、
●社会人になりました。
このはてブの初めての投稿は、私が卒論で扱った内容について、
https://yurietty-pon.
このあと、卒論の口述試験も難なく終え、3月に卒業式を迎え(
大学院に行くことは、何度も考えてました。
だし、先生にも友人にも両親にも勧められたくらい、
でも進学する道は選ばず、就活に全力投球する道を選びました。
理由は至って簡単。
試験勉強が嫌いだから。
人それぞれ得意不得意、好き嫌いは異なると思います。
正解があるほうがやりやすい人、
私は、"学ぶ"こと、"見つける"ことは大好きだったのですが、
私は私なんだからそれでいいじゃねえか!ってなるタイプです(
そのため昔から試験は嫌いで。
院に行くとなったら、また同じことになってしまうのかなあ、
言語学とお別れするわけじゃないから、
●言語学に未練タラタラな私。
そんなわけで社会人になった私。
今の気持ちをひとことで言えば、
言語学やりてえええええええええええ
ってかんじなんですよ。
私、自分が思っていた以上に、勉強が好きだったみたいです。
ひとつだけ言いたいのは、勉強が好き≠真面目・優等生、
よく、勉強が好きっていうと、「偉いねえ」とか「真面目やなあ」
あとの話にも繋がるんですけど、ただの自己満足なんです。
勉強する人が偉い、頭がいい人はすごい、
目指すものがあって努力を重ねて知識を蓄えている人はその努力や
(完全に脳内で大晴くんのことを考えながら書いてます今)
数値化されやすい、言葉を選ばず言えば"利用しやすい"
話が逸れました。すみません。
そう、言語学が大好きで、
そこに追い打ちをかけてきた、
業務内容がバリバリの理系
というわけで、もう泣けないですよこんなの。
まあ、頭を回転させるのはきらいじゃないから、
●なんでこんなに好きなんだろう。の気持ち。
院に行くことを迷っていたとき、知り合いとやり取りをしていて、
私にとって学問は自己満足で、大好きなもので。
結局ダラダラしてしまうんじゃないか、と思った、というか。
遊んでいる気分の自分と、"学問を極めて偉いね"と言ってくる(
いざ、社会人になって、未練タラタラで、
まあ、理由なんてないんですよね(大の字)(解決する気ゼロ)
ドラマや映画を見ててダウンシフトが起きればニヤニヤしてしまう
むりやり理由を探すとしたら、
そういう視点を手に入れたから
のひとことに尽きるのかなあ。
冒頭で挙げた、私の初めてのはてブ、
その中でも「今まで意識したことなかったけど」
意識してなかったものを意識するようになる、
学ぶことの入り口って、私にとっては、その"視点"
そうやって描いて生まれたものには、正直言って、
じゃあなんで描くのかって聞かれたら、好きだから、
………あれ?なんの話だ?
●役に立つ学び、生産性のある学び。
学生時代から思っていましたが、
よく言われるのが以下の質問。
「言語学って、仕事に役に立つの?」
「文学部の人ってどこに就職するの?」
もしかしたら、
こういうとき、私は表では、「いやあ〜
もちろん悪気があって聞いてきてるわけではないと思います。
学生時代の学びが仕事に役立つことはもちろんあるでしょうし、
でも、じゃあ、役立てることが難しい学問は意味がないのか?
ないんだと、私は信じたい。
私は言語学を学び始めて、人との会話、
学会を聞きに九州まで行って、
直接的な言語学の影響かはわからないけれど、この1年くらいで、
仕事につながらなくたって、
これに加えて、
それに、私は、
でも、気づいたら、
なんかそう考えたら、ちょっと自信が持てるようになりました。
(それが卒業間際だったことだけが無念なんですけどね…)
●学び"つづける"難しさ。
自己満足以上のものが得られるのであれば、
時間のつくり方が下手なだけかもしれないですけど。
覚えることはたくさんあるし、取らなきゃならない資格もあるし、
週5日40時間(+α)
しかも悲しいことに、先程散々否定した"仕事に役に立つか否か"
学ぶことは好きだけど、
仕事をするための準備が最優先、
で、自分のしたい学問は"優先度の最も低い嗜好品"
なんかめちゃくちゃ悲しい。
今の私にはそれをどうしようもできないのが、悲しくて悔しい。
例えば、院に進学しながらバリバリにバイトしていたら、
じゃあそうすればよかったのかな?って思うと、
社会人になったから、企業に就職したから、
これは甘えなのかしら。
社会はそんなに甘いもんじゃないぞ、って、
うーん。
●で、何が言いたいの?
ほんとに目的なく書き始めちゃったから、
まあ、ここでどれだけ騒ぎ立てたって、
好きに勉強したらいいじゃん生活は見てあげるから、
仕事なんてそこそこに誤魔化しながらやったらいいんだよ、
一緒に悩んでくれる人や、
それでもなんかね、書きたくなっちゃったんです。
私の得意技、自己満足。
もしこれを読んでくださった方が、
学生の方、新社会人の方、学生卒業してから数年経っている方、
上手い生き方をされている方がいたら、アドバイスをください。
自分の今いる立場になんかちょっとモヤっとしてる方がいたら、
ご自身と学問の結びつきについて考えてくださる方がいたら、
なんでもいいから、なにか考えてくださったら、
まあ書いただけでだいぶすっきりしてるんですけどね!
しのぴょんの言語現象を観察したお話。
●はじめに。
こんにちは。こんばんは。
ご来訪いただきありがとうございます。
お久しぶりの投稿です。
今日は、かねてより分析したいと思っていた、
しのぴょんの言語現象
を観察したいと思います。
(『知ってるワイフ』が最終回迎えるのを待ってました。いや、終わってほしくはなかったんだけどな……)
目次は以下の通りです。
●はじめに。
●しのぴょんのキャラクターについて。
●語句の紹介。
●分析データ。
●分析方法。
●結果。
(●おまけ。3ヶ月後のしのぴょんと樋口さん。)
(●おまけ2。津山主任のアップシフト。)
●おわりに。
こんなかんじで書いていきます。
お時間許す方は、肩の力を抜いてゆるっと読んでくださったら嬉しいです😊 ️
●しのぴょんのキャラクターについて。
まず、しのぴょんって誰やねん!ってなった方のために、あっさりと紹介します。
ドラマ見ていた方は飛ばしちゃって大丈夫です◎
・『知ってるワイフ』
2021年1〜3月期にフジテレビ系木10枠で放送されていた、全11話のドラマです。
主演の剣崎元春を演じるのは、大倉忠義さん。
ヒロインの建石澪役に広瀬アリスさん、同僚の津山千晴役に松下洸平さん、そのほか、瀧本美織さん、生瀬勝久さんなどが出演されていました。
ストーリーは、公式ホームページには以下のように紹介されています。
"本作は、「結婚生活、こんなはずじゃなかった!あの頃に戻って人生をやり直したい!」と日々嘆く恐妻家の主人公が、ある日突然過去にタイムスリップして、妻を入れ替えてしまうところから始まる物語。結婚生活5年目、夫も妻も相手への気遣いができなくなっていく頃、唯一の共通の思いは「なんでこの人と結婚してしまったのだろう」。そんな誰もが抱える結婚生活の不満と後悔をリアルかつコミカルに描きながら、「あの日、あの時に戻りたい」という悲痛な願いがかなってしまい、奇跡の人生を手に入れた主人公を通して、“自分にとって大切な人とはどんな人なのか?”“誰かと人生を生きていくとはどういうことなのか?”そんな夫婦の普遍的ともいえるテーマを追求していきます。SNSなどコミュニケーションツールが発達し誰とでもつながれる今の時代だからこそ、身近な人へ大切な思いを伝えたくなるハートフルストーリーです。"
https://www.fujitv.co.jp/shitteruwife/introduction/
(小声)ハートフルストーリーか!?見ていると元春にイライラもやもやしまくるドラマじゃなかったか!?素敵すぎる津山さんが完全なる当て馬で心を痛めてたぞこっちは!!!(津山さん拗らせ続けた私)
ま、今回このストーリーの本筋はほとんど関係ありません。笑
本題はここから!
この主人公、元春が勤めるあおい銀行の新人行員としてストーリーを静かに掻き回す(?)のが、篠原恭介くん。通称しのぴょん(またの名を、しのし)。
演じているのは、みなさまご存知、
末澤誠也さん。
毎週、末澤誠也(関西ジャニーズJr / Aぇ! group)っていう表記見るの、すごく幸せでした。
余談です、はい。
しのぴょんのキャラクターについて、公式ホームページには以下のように紹介されています。
"『あおい銀行』世田谷支店、融資課の新人行員。いわゆる“ゆとり教育世代”。仕事はそこそこにそつなくこなし、やりたくないことはやらない。上司の命令に素直に従う元春たちを見ながら、「こんな風にはなりたくない」と内心思っている。一方で、IT会社の役員を務めている優秀な兄と比較されて育ったため、人からの評価に敏感。そんな劣等感を悟られないようにクールな人物を気取っているが、実は繊細で心優しい青年。くるぶしソックスを履いている。"
さて、過去の私のはてブを読んでくださっている方はお気づきでしょうか…私が今回しのぴょんに注目した理由……
そうです、
新人行員ということは、基本的に他の行員に対して敬語を使用しているのです!!!!!!
普段敬語を使用しているしのぴょんがダウンシフト、つまり一時的にタメ語を使用する場面はどんなシーンなんだろう!?
というのが今回のブログのテーマです。
・『知ってるシノハラ』
そんなしのぴょんが主人公となった、FODで配信されているスピンオフドラマ。
しのぴょんと、窓口課で働く樋口静香、尾形恵海の3人が中心でストーリーが進んでいきます。
話数は本編と同じく11話。長さは6〜7分程度のミニドラマです。
こちらではガンガンにしのぴょんが喋っているので、分析のしがいがあります。いえい。
………全然紹介あっさりできてなかった。笑
●語句の紹介。
今回、言語学の視点から分析するのに先立って、いくつか語句の紹介をします。
以前私のはてブを読んでくださっている方は飛ばしてください🐤
今回、久々に書くので、改めて掲載しようと思ったまでです。
まず、テーマにがっつり関係してくる現象がこちら。
スタイルシフト:発話のスタイルを変化させる現象(ここでは敬語⇔タメ語の変化)
ダウンシフト:敬語話者が一時的に発話のスタイルをタメ語に変化させる現象
アップシフト:タメ語話者が一時的に発話のスタイルを敬語に変化させる現象
そして、上記の現象が以下のような効果を持ちうる、とか関係してくるのがこちら。
ポジティブフェイス:相手と近づきたい、相手によく思われたい、という欲求
ネガティブフェイス:相手と距離を置きたい、私的領域に踏み込まれたくない、という欲求
ポライトネス:上記のフェイスを満たすための配慮
FTA(フェイス侵害行為):上記のフェイスを脅かす行為
ざっくり言うと、急にタメ語/敬語を使ったときに、相手によい効果を与えるならポライトネス、嫌な気分にさせるならFTA、ってかんじ。
(ざっくりしすぎて有識者に怒られそう…ごめんなさい…)
ダウンシフトがどのような効果を持つか、という先行研究についてはここでは詳しく説明しませんが、たとえば初対面の2者間会話で、心的距離の縮小や緊張緩和といった効果をもつとき、ダウンシフトする発話内容には、聞き手への働きかけが弱い内容(自分に関する内容など)が選択されることが多く、働きかけの強い内容(質問、命令など)は避けられると述べられています。
また、タメ語のもつunofficialさ(うまく日本語訳できないんですよね…くだけた雰囲気、みたいなことです)という要素から、敬語でもタメ語でも許されるような関係性の話者同士の会話のとき、メインの話題を話しているときは敬語で、ちょっと脇道に逸れた話題になったときだけタメ語、なんていう例がみられることもあるようです。
で、さらに、僭越ながら私が卒論で研究した結果を追記すると、上記のほかに、親密関係である(けれども垂直関係があるため敬語使用が標準である)とき、聞き手との実際の関係性以外の要素を強調しようとするときにもスタイルシフトが起こりやすい、ということがわかりました。このとき、働きかけの強さなどは大きく関わらない、というのが私の研究の結果ではみられています。反対に、実際の関係性を優先する会話場面では、垂直関係を色濃く反映するため、働きかけの強弱にかかわらずダウンシフトは起こりにくいという結果が出ています。
そしてちょっと視点を変えて、発話の数え方について。
完了可能点:1つの発話順番が終わるぞ、というのが聞き手に伝わる箇所
順番構成単位(TCU):完了可能点を迎え、1つの発話順番を構成することができる言語的単位
今回はこのTCUごとに発話を区切って考えていきます。
TCUは、文法的に完全でなくても、節や句、語のみでも成立し、発話者が「これで自分の発話終わりなんで!次誰かしゃべってええよ!」となるタイミングで1つのTCUが生まれる、というかんじです。
こんだけいろいろ専門的っぽいこと書きましたが、さらっと読んでもらえたら大丈夫です!
とにかく実際の分析見てもらうほうがわかりやすいと思います😊
●分析データ。
今回、おもに注目するのは、
しのぴょんと樋口さんの会話場面
です。
比較参考にするために他の場面の言語現象も例を挙げたりしますが、注目はこの点です。
樋口さんは、まあなんやかんやあってしのぴょんに好かれ、しのぴょんを好いてゆきます(雑)。
仕事場での立場としては、先述したようにしのぴょんが新人なので、お互いに好意を持ち始めてからも言葉遣いは基本的に
タメ語の樋口さん⇆敬語のしのぴょん
となっています。
具体的に扱うデータとしては、
・『知ってるワイフ』内にみられる2者の会話場面
・『知ってるシノハラ』内にみられる2者の会話場面
です。
時系列は、本編1話→スピンオフ1話→本編2話→スピンオフ2話……というふうに捉えることとします。
ただし、本編の1話は、タイムスリップする前の世界線で、2者及びその他の人物間の関係性が異なっている可能性があるため、分析はスピンオフ1話からスタートします。
同様の理由で、本編11話およびスピンオフ11話も、世界線が異なっているため、分析の範囲からは除外しています。
(見ていない方は、何言ってるんじゃ?ってなると思うのですが、スルーしてくださって大丈夫です。)
●分析方法。
まずはいつもと同様、2者の会話場面を文字起こししていきます。
参考までに、しのぴょんが話している場面は、相手が樋口さんではない場面も観察しています。
次に、会話場面中のしのぴょんの発話をTCUごとに区切っていきます。
それぞれのTCUの文末表現に着目し、
(a)敬語(丁寧体を伴った言い切り文)
(a')中途終了発話、敬語寄り
(b')中途終了発話、タメ語寄り
(b)タメ語(デアル調、またはそれに値する発話。丁寧体を伴わない言い切り文)
の4項目に分けていきます。
中途終了発話とは、接続詞などで終わっていたり、名詞句のみが発話されていたり、完全文とは言えず他の2項目に分類しかねるものを指します。
ただ、文末表現がなくても、文中にデスマス調が現れるものかそうでないか、や、反応ひとつとっても、「はい?」と「え?」だったら少し感じ方が違ってきたりしますよね。
そのため今回は、たぶん敬語意識で話してるんだろうな〜というものを(a')、たぶんタメ語意識で話してるんだろうな〜というものを(b')、と、中途終了発話を2項目に分けてみました。
具体的には、
はい/というのもですね…/あ、いや/ などは(a')
え?/あれ?/別に/あ、そうだ/はあ…/あーあ/ などは(b')
みたいなかんじです。
けっこう勘です。すみません。ただ、そこまで詳しく触れてないので許してください。
名前の呼びかけのみ、他の人や過去の自分の言葉の模倣は対象外としています。
(本編8話の「今から3秒後にキスをする。嫌ならよけて」は、スピンオフ4話の樋口さんの「今から3秒後に投げる。嫌ならよけて」の模倣なので、カウントせず、みたいなかんじです。)
また、少し迷ったのですが、今回は独り言的発話も対象外にしました。
その場に聞いている人がいる場合でも、対象外です。
(スピンオフ1話「すっごいパラパラだ…チャーハンみたい…」は樋口さんも尾形さんも傍で聞いていますが、発話者は受け手を意識して話しているわけではないのでカウントせず、みたいなかんじです。)
理由としては、伝達するという意識がある発話、受け手を意識した発話でのダウンシフトに絞って分析をすることで、より特徴が現れるのではないか、と考えたためです。
あとは単純に独り言的発話めっちゃ多かったので、含めてしまうとあとから割合を出すときにパッと見で結果がわかりにくくなるためです。
倒置法のように見えるような発話は、TCUの拡張が起こったと捉え、ひとつの発話単位として数えていきます。
(本編6話の「コーヒー飲んでましたよね?建石さんと」は、「ましたよね?」で文末表現が現れていますが、「建石さんと」直前のTCUの追加情報として捉えられるので、この発話でひとつのTCUとし、(a)敬語のカテゴリに分類する、というかんじです。)
ここまで行ってから、分析を二手にわけます。
①量的分析
4項目に分類された発話の割合を見ていきます。
その際、樋口さん相手の発話時、と、そのほかの相手の発話時、で分けて見てみます。なにか割合に違いが出るのかどうなのか…。
②質的分析
こちらでは、具体的にダウンシフトした場面を観察し、なぜここでしのぴょんはダウンシフトしたんだろうか?これは容認されうるのか?を考えていきます。
●結果。
①量的分析。
ではまず、先の4項目に振り分けた発話の数を見ていきましょう。
|
(a)敬語 |
(a’)中途終了発話 (敬語寄り) |
(b’)中途終了発話 (タメ語寄り) |
(b)タメ語 |
対樋口さん |
48 (49%) |
25 (25%) |
20 (20%) |
6 (6%) |
対樋口さん以外 |
99 (57%) |
45 (26%) |
21 (12%) |
8 (5%) |
はい。こんなかんじです。
若干、樋口さんに対する発話のほうが(b’)や(b)といったタメ語交じりの割合が高めですが、誤差の範囲内なのかなあ、という気もします。
というのも、会話を交わしている場面を考慮すると、対樋口さんのときは比較的プライベートな内容も多い一方で、対樋口さん以外のときは、上司との仕事中の会話などもいくつも含まれているため、心的距離や垂直距離にかかわらずofficialな場面のために敬語になるということはじゅうぶんに考えられるからです。場面、という点で同条件ではないために、これくらいの誤差はありえるのかな、というのが今回の私の見解です。
むしろこの結果を見て、しのぴょん、仕事以外でもちゃんと敬語使ってるんだなあ…と感じたくらいでした。私は。
やってみたもののあんまり深く掘り下げられないですね、ここ。笑
②質的分析。
ここでは、しのぴょんと樋口さんの会話をより詳しく観察していきます。
対象となる台詞のうち、しのぴょんが樋口さんに対してハッキリとダウンシフトしたのは、6回ありました。
そのうち、その場に尾形さんもいる場面で2回、2人きりの場面で4回、という結果。
少ないし、全部列挙してみますね。
(例1)スピンオフ1話より [3:32~]
01: 樋口 6月2日?
02: 樋口 あれ、待って。
03: 樋口 本能寺の変って、6月2日じゃない?
04: 篠原→ そんなこと今どうでもいいでしょ?
05: 篠原 あっ。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4t00/4t00110001/
(以下、会話例のあとに引用元URLを載せていきますが、FOD会員に登録している方しかご覧になれませんのであしからず…)
元カノへの手紙をシュレッダーでパラパラチャーハンにしたしのぴょんが樋口さんに逆ギレする(?)シーン。
この直前までは座り込んで落ち込んでいるのですが、4行目の台詞を言うときに立ち上がります。
4行目でダウンシフトした原因は、感情の高ぶり(イラつき)による「先輩-後輩」関係意識&樋口への敬意の喪失、だと考えられます。
敬語で発話するとしたら、「そんなこと今どうでもいいじゃないですか!」とかになると思うのですが、直感的に、なんか、「でしょ?」のほうが合ってるかんじが、しません?(押し付けるな)
これは、内容の伝達のためのダウンシフトというよりは、感情と連動したダウンシフトだといえます。
(例2)スピンオフ4話より [5:15~]
01: 樋口 今から3秒後に投げる。
02: 樋口 嫌ならよけて。
03: 樋口 1…
04: 篠原 いやいやいや、ちょっと待ってください。
05: 樋口 2…
06: 篠原 ねえ、ちょっと。
07: 樋口 3…
08: 篠原→ 待って待って。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4t00/4t00110004/
ウジウジしているしのぴょんに痺れを切らした樋口さんが、しのぴょんめがけてボールを投げつける直前のシーン。
これは4行目で一度同様の内容を敬語で発話してからの8行目でダウンシフト、という現象です。
具体的な原因はわからないのですが、こういった"繰り返し場面でのスタイルシフト"は、しばしば観察されます。繰り返し同じ内容の発話をする、ということは強調したいという意図が読み取れます。さらに、一度目の発話で受け手に満足に届いていない(と発話者が感じている)とも考えられます。このとき、届かなかった原因が聞き取りのトラブルによるものなのか、理解のトラブルによるものかで、繰り返しの特徴は異なっており、聞き取りのトラブル(電話が遠いとか、早口で話していたとか)であれば、同じ語句をもう一度明瞭に発話する、理解のトラブル(その語句を知らないとか)であれば、同じ内容を別の語句に置き換えて発話しなおす、という修復を行います。
ここでダウンシフトした原因は、焦り・余裕のなさによる関係性意識の消失&聞き手の理解のトラブル(聞こえているはずなのに待ってくれない)を修復するための言い換え、であると考えられます。
理解のトラブル(一度目に言った内容を聞き入れてくれない)が起きているときにダウンシフトが効果的なのか、は、先行研究にあたったわけではないので明確には断言できませんが、ダウンシフトをすることでより直接的な、相手に踏み込んだ言い方になるために、敬語のまま繰り返すよりは効果があるのではないかな、と思います。
…お分かりのとおり、ここの部分、割と憶測だらけです。すみません。
でも「待って待って」は先ほどの「でしょ」ダウンシフト同様、自然に容認できる気がするんですよね。ここでもう一回「待ってくださいって!」とはならない気がする。
(例3)本編8話より [15:15~]
01: 尾形 彼女出来たらしいんだよね。
02: 樋口 あーそっか。
03: 樋口 じゃあまたいい人いたら紹介して。
04: 篠原→ 紹介する。
05: 樋口 え?
06: 篠原→ 僕の先輩を紹介する。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4s88/4s88110008/
なんかもう、え?ってかんじ。
先の2つはあまり違和感なく容認できるタメ語だったのですが、これは聞いた瞬間、え!?ぴょん!?え!?ってなりました。私のFFさんも2人くらい「ダウンシフト…」って言ったくらいです。
なぜビックリしたかというと、先程の2つとは異なり、怒りや焦りなどの感情の急激な変化がみられず(というか4行目で突然話し出すから変化も何もないし)、笑いなどを伴ったユーモラスな発話でもなく、至って"通常の関係性を保ったまま"、"相手への提案という働きかけの強い発話内容で"ダウンシフトをしているからです。さらに、今回も繰り返し発話が観察されますが、一度目(4行目)も二度目(6行目)もダウンシフトしているので、勢いでタメ語になっちゃった、というわけではなく、ある程度意識的にタメ語を選択したのではと考えられます。
ここでダウンシフトした原因は、、、ちょっと一旦保留にしますね。(え?)
(例4)本編9話より [33:13~]
01: 篠原 なんですか?
02: 樋口 どういうこと?
03: 篠原 は?
04: 樋口 私に好きって言ったばっかなのに、もう恵海のことが好きなわけ?
05: 樋口 随分簡単ね。
06: 樋口 そんなコロコロ相手を変えれるなんて。
07: 篠原→ なんで怒るの?
08: 篠原 関係ないですよね。
09: 篠原 僕は樋口さんにフラれたんだし。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4s88/4s88110009/
ここもね、え!?ぴょん!?待って待って!?ってなったシーンです。
ここで面白いのは、(例3)同様に感情の急激な変化があったり笑いを伴ったりしない、という点に加え、7行目でダウンシフトした直後の8行目に敬語使用の発話がみられるところです。
え、お前さっきは連続したタメ語だから面白いって言うてたやん?というツッコミをされた方、確かにそのとおりです。でもここは繰り返し発話じゃないというのと、質問発話であるということがポイントかな、と。
樋口さんからの"非難"を受け、通常であればその発話内容に対する返答(弁解もしくは謝罪)がされるところ、しのぴょんは内容ではなく"非難"という発話行為自体に対して"質問"をする、という構成を取っています。これは、本来期待される返答がない&聞き手(樋口さん)に踏み込んだ内容である、という点で、失礼になる可能性を含んでいると考えられます。それをさらにダウンシフトして発話してるので、FTAにならんかな…とドキッとするわけです。
でも、主観ですが、失礼にはなってないんですよね。
その理由としてあげられるのが直後の敬語発話です。これがあることで、ダウンシフトが(例1)のような単なる敬意の消失や「先輩-後輩」関係を無視しようとしたわけではないと考えられるのです。
では、ここでダウンシフトした原因はなにか、ということですが、、、これも一旦保留にします!(放棄)
(例5)スピンオフ9話より [6:08~]
01: 篠原 ちょ、尾形さん、尾形さん
02: 篠原 樋口さんも
03: 篠原 痛いって、もう
04: 篠原→ からだが、からだが、ボロボロに、なる
05: 篠原 俺の、俺のから、だが、ちょ、
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4t00/4t00110009/
尾形さんが暴走(?)して、しのぴょんをロッカーにガンガンぶつけるシーン。
ここは、正直分析対象に含んでよいのかちょっと微妙なんです。というのも、ご覧になった方はおわかりかと思うのですが、ここのしのぴょん、アドリブなのかな?若干関西訛り…?中の人出てきてる…?といったところなので、100%しのぴょんの発話だと捉えていいのか、うーん…といったシーンなのです。シナリオブック欲しいよう…。
とりあえずダウンシフトした原因を考えると、直接的な非難にしないためのダウンシフトじゃないかと、思われます。普通、ダウンシフトをすることで、受け手への働きかけが強くなる、と説明しているのに、なぜここでは逆になるのか、ですが、これは発話内容に関係しています。
この発話は、発話者に関する内容であり、聞き手である樋口さん尾形さんには関係のない内容です(ボロボロになる原因としては関わってるけど)。それを敬語使用、すなわち、"あなた(たち)に向けて僕いましゃべってますよ"という意識のもと発話すると、「なぜぴょんは自分の状態を彼女らにわざわざ伝えるのか?→その原因が彼女らにあると考えているからだ」、という推論が成り立ち、自分に関する内容に見せかけた聞き手への非難になる可能性がより高まると考えられるのです。そのためダウンシフトをすることで若干独り言的にしているのだと思われます。
ま、そんな複雑なことを考えて発話しているというよりは、無意識にそれを選択しているのだとは思いますが…。
というわけで、しのぴょんがダウンシフトした場面についてすべて触れたのですが、先ほど保留にした2つ、もう一度考えてみましょう。
正直、私にも正解がわかりません。
わからないけど、この2つ、ものすごく魅力的なダウンシフトなんです。
で、ひとつ共通点を見つけたんですよ。
この2つのシーン、どちらも、しのぴょんが、
樋口さんは自分以外の人を好いている、と思っている、
という心理なんですよね。
「紹介する」のほうは、樋口さんが尾形さん経由で出会いを探していることが発覚した直後の発話、「なんで怒るの?」はフラれた直後。
……もしや、しのぴょん、自分以外の誰かを見ている樋口さんの気を引くためにダウンシフトをしている_______?
お、お客さまの中に、このような心理状態について説明してくださる心理学専攻の方はいらっしゃいませんか!?!?
もしこれなのだとしたら、私には処理しきれん………
ダウンシフトの特徴のひとつ、"心的距離の縮小"が効果をもつのは、相手への働きかけが弱い発話だとされているので、本来このような提案や質問といった発話行為ではダウンシフトは起こらないはずです。
しかしながら、こういった、ある種嫉妬に近い感情を持っているとき、FTAになる危険性を孕んでまで聞き手との心的距離を急激に近づけようとするのであれば、もしそれが成功すればとても効果的……
だって現に傍観者である私はこの2つのシーンでキュンとしたし……
新たなダウンシフトの現象を見つけてしまった気がします。
みなさん、いかがお考えでしょうか。マシュマロください。
●おまけ。3ヶ月後のしのぴょんと樋口さん。
スピンオフ11話は、元春と澪さんがタイムスリップした世界でのしのぴょんたちの様子なので、今回は分析に含んでいませんが、こちら、非常にニヤニヤしながら拝見しておりました。
なぜかって…?
しのぴょん、樋口さんに対してめちゃめちゃタメ語なんすよ。
しかも、絶妙にちょっとぎこちなさが残っているんです。
以下の例をご覧ください。
(例6)スピンオフ11話より [2:40~]
01: 樋口 ねえこれは?
02: 樋口 デスクにあったけど。
03: 篠原 ああ、これじゃないかな。
04: 樋口 あ?
05: 篠原 これも好きなんだけど、もっといい消しゴムなんだよね。
06: 樋口 じゃあこれ?
07: 樋口 これもデスクにあったけど。
08: 篠原 これも違うかな。
09: 篠原 なんかこう、もっといい、消しゴムなんだよ。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4t00/4t00110011/
はい。これですよ。
完全にタメ語を使っておられる。
この世界線では、このとき付き合い始めて3か月ということなのですが、3か月の間にしのぴょん、タメ語を使うようになったのね…と号泣ものですこれは(それは嘘)。
しかも、3行目、7行目で文末に「かな」をつけているのが個人的にはさらに面白いなとかんじたポイントでして。文末表現を少し和らげているというか、タメ語ではあるんだけど少し働きかけを弱めているようなかんじがして、まだタメ語に慣れていないのかな?っていうのが見えるのが可愛い。
はい、以上、感情に任せたただの私の感想でした。
●おまけ2。津山主任のアップシフト。
しのぴょんと対照的な例として、津山主任の例もあげてみます。
……あ、いや?別に?津山主任好きすぎて書きたかっただけとかじゃ?ないですから??
…………ごめんなさい。嘘です。しのぴょん関係なく、ただ津山主任が好きなので観察してしまったまでです。
思ったより長くなってしまったので、お時間ありましたらどうぞ👐
津山主任は、今回しのぴょん分析を行った世界線では独身で、異動してきた澪さんに恋に落ちます。この恋の仕方がまあ可愛いし積極的だし健気だしまっすぐだし(以下略)
津山さんは主任という立場、澪さんは新しく異動してきたいわゆる新人という立場なので、「教える-教えられる」という垂直関係が生まれ、(津山主任は澪さんと心的距離を縮める目的もあったと思いますが)
タメ語の津山主任⇆敬語の澪さん
という状態でストーリーが進んでいきます。次第に仲を深め、心的距離が近づいていく中でもこの構図は変わりません。
そんな2人の会話の中で、一度だけ、唐突に津山主任がアップシフトをする場面があるのです。
(例7)本編4話より [27:08~]
01: 津山 建石さんはいつもたくましい。
02: 津山 (笑い)
03: 建石 はい。
04: 建石 津山主任は思ったより優しいですね。
05: 津山 思ったより…
06: 建石 はい。
07: 建石 あ、優しいのは女性にだけとか?
08: 津山 バレた?
09: 建石 もう。
10: 建石 (笑い)
11: 津山 (笑い)
12: 津山→ 冗談ですよ。
https://fod.fujitv.co.jp/s/genre/drama/ser4s88/4s88110004/
澪さんのお母さんの様子が心配だ、という話をしたあとのシーン。
1行目、それまでの少し深刻そうな空気を和らげるように、津山主任はユーモラスな音調で発話をしますが、「たくましい」と思っていることは真でしょう。それに対して澪さんは、「たくましい」という言葉に少しアイロニカルさを感じたのか、4行目で若干の皮肉を込めているかのような言い方で「思ったよりも優しい」と言います。音調や話し方(ぐーっと津山主任の顔を覗き込むように話しかけるかんじ)と「思ったより」がユーモラスさを生み出していますが、「優しい」と感じているのは真。
ここからちょっとユーモアの方向性が変わります。7行目で澪さんはあたかも真剣なトーンを装って発話をしますが、発話の内容にユーモアを持たせます。ユーモアを含ませる対象を、声のトーンから発話内容へと転換したわけです。津山主任もそれに気が付き、澪さんの冗談に乗って発話のトーンはあたかも通常通りにして8行目の発話を行い、2人で笑い合う、というなんとも平和な空間。
と、思いきや。
12行目で「冗談ですよ」とアップシフトをする津山主任。
そもそも津山主任が澪さんに対してこれだけハッキリと敬語を使うのがたぶんここくらいだと思うんです。別れのシーンですら“いつもどおり”を演じてあえて心的距離の近さを保っているようにタメ語や笑いで演出しているのに(号泣)。
それに、その直前2人とも笑い合っているのだから、冗談である、ユーモアを楽しんでいる、ということは互いに認識しているので、アップシフトしなかったとしても、「冗談だよ」なんて言う必要がないはずなのです。
ということまで考慮したうえで、12行目でアップシフトした理由として考えられるのは、officialさを含んだ敬語形式によって8行目の自らの発話を冗談であると明確に示すことで、単にそれが冗談だった(真か偽かは明示しない)というだけでなく、「女性に対してだけ優しい」という発話内容を否定する意図が明確にあったからだと考えられます。
これ、今3時間くらいずっと考えていたのにうまく説明できないのですが…。
ここでの津山主任の敬語は聞き手への敬意ではなくofficialさを示すものであることは、たぶん間違いない。そしてそれと対照的になるunofficialさというのは、7行目から11行目にかけての会話だと考えられる。unofficialさというのは、一種の遊びでもあり、メインの話題ではない、ということ。ここでも、ユーモアを持った会話のやり取りで笑いを生み出している。それをofficialな形式で指摘することで、メインの話題として直前の発話をある種“否定”する。そこまでして伝えたいことがあるはず……
で、私、気づいたわけです。
この回の前半、ストーリー的には数日前に、
津山主任は、澪さんに、告白をしている、
ということに。
「女性に対して優しい」の否定をすることで示そうとしていることは、
「性別関係なくみんなに優しい」ということではなく、
「あなたが女性だから優しくしているんじゃなくて、あなただから優しくしたいんですよ」
という、いわばこれは二度目の告白_____________
分析に私情を挟むのはよくないとは重々承知しているのですが、流石にこの可能性に気付いたときには騒ぎましたし、どう頑張っても冷静に分析できませんでした。
たぶん、私の思い込みではないと思うんですが、うまく説明できなくてもどかしい。
(一晩寝かせて考えたけどやっぱりわかんない)
なにかご意見あればぜひご一報ください。
●おわりに。
さあ今回も非常にボリュームたっぷりでお届けしました。
文字数的に、卒論の内容書いた初回のはてブより長い。笑
ここまで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございます。
ドラマだと、やっぱり自然会話とは少し見方が変わるような気がします。
特に今回のような、恋愛感情が絡む垂直関係の2者間会話は、とても難しいというのがわかりました…。
でも、でも、それ以上に楽しいし、わからなくても直感的にきゅんとするのは確かなんですよね。その、きゅん、をほっとけないからこんなふうに書いてしまうのです。
分析すればするほど、心理学とかも関係してくるんだろうなあ、という気持ちになります。
初心者にもわかりやすい入門書みたいなものあれば、マシュマロやDMでオススメしてください。読んでみます。
では。また気が向いたときに、思い出したようにつらつらと書きに来ます。
ありがとうございました!
[参考文献について]
参考文献は過去の私のはてブに掲載しているものです(雑ですみません)。