”好き”の追求。

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こんにちは、こんばんは。
ご来訪いただきありがとうございます。

私が初めてこのはてなブログに記事を投稿してから、今日で1年が経ちました。

佐野さんのタメ語を分析して、卒業論文で扱ったお話。
想像をはるかに超えてたくさんの方に読んでいただき、ご意見やご感想をいただきました。
そこから、1か月にひとつくらいのペースで、言語学の話題を中心に、自分の「ことばを書きたい!」という欲に任せて投稿しています。

今日も同じ。1年という節目を利用して、ことばを紡ぎたい欲を満たすだけのブログです。

 

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佐野さんタメ語はてブを書いてから、「言語学知らなかったけれど面白い!」「自分もことばについてこう思うことがあって、これってこういう現象なのかな?」などと、言語学や日常の言語現象に興味を持って、そのことをマシュマロやDMで報告してくださる方がたくさんいらっしゃいました。
定期的に同様の内容のツイートもしていますが、こういった反応が、私は本当に、本当に嬉しいです。
それは、何よりも、私が、言語学のことを大好きだから。そして、言語学やことばについて好きでいるという姿勢に誇りを持っているからです。
感覚としては、知り合いを自分の推しの沼に落としたときと似ているかもしれません。笑
んー、でも、自分で言っておきながらすぐ撤回しますが、似ているけれどそれよりもっと嬉しくて幸せだなあって思っているかも。

自分の専門領域以外の学問って、なかなか自発的に手を伸ばしづらいと思うんです。気になっても、何から始めたらいいかわからなかったり、本などからの情報を一方的に吸い込むだけではどうしても理解がしにくいところを超えられなかったり。
それでも私は、自分の大好きな言語学を少しでもたくさんの人に知ってほしいなあ、と、ずっと思っています。なぜなら、ことばって、ほとんどの人たちが毎日使用しているもので、決して他人事の学問ではない、と思っているから。ま、それを言い始めたらどの学問もそうだろ!って言われかねませんが。
だからこそ、自分が書いたブログやツイートで、誰かと言語学の架け橋というか、本来つながるはずのなかった道がつながるきっかけというか、そういうものをつくれた(というか現在進行形でつくることができている)と実感できることがとにかく幸せ。

そしてもうひとつ。
これもよくツイートしているかもしれませんが、ことばって、面白いだけではなくて、人を無意識に傷つけたり、逆に傷つけられたり、自分の思っているように相手に届かなかったり、難しくて複雑で厄介なものでもあると、私は思っています。言語学を学べば学ぶほどその気持ちは強くなるし、生きづらくもなる。でも、考え方を変えると、理由がわからないけれど悔しかったり苦しかったりしていたことにそう感じる根拠を見つけることができるようになってきたとも言えるのです。それが、必ずしも役に立つことかは、わかりません。それでも、そういう、負の感情の解像度を高める手段として、ことばを注意深く見つめる、という方法があることを、私の発信したものを通じて受け取ってくださった方がいたらいいなあ、それでちょっとでも対処法が見つかったり気持ちが楽になってくださったりしていたら嬉しいなあ、と思っています。

はい。

 

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最近、考える時間がとにかくたくさんあるので、いろんなことを考えます。
この間までは、好きなことをする気力さえもなかったけれど、この数週間ようやく手をつけられるようにもなって。

そうした中で、思ったことがあります。今日のテーマ。
自分の“好き”を追求することって、とにかく、とにかく、難しくて、度胸や努力や覚悟が必要なんだなあ、ってことです。

当たり前だと思うでしょうか、それとも、自分の好きなことをするなら楽しいじゃないかと思うでしょうか。

私は、

言語学が好き。

ことばが好き。

お芝居が好き。

ミニシアターで上映されるような自主制作映画の世界観が好き。

アイドルが好き。

コンサートとかの生歌から浴びる迫力が好き。

などなど、たくさんの“好き”があります。
でも就職活動のときには、そのどれかひとつを選ぶことなく、どちらかと言えば安定を求めて就職先を選びました。その背景には、どこかで自分の“好き”を軽んじていた部分もあるし、上記のものを極めても数年後、十数年後の将来がどうなるか想像できなかった部分もあるし、親をはじめとして周りの目や意見を跳ね返し切る強さを持てなかった部分もあるなあ、って、今となっては思います。
もちろん、趣味と仕事をきっぱり切り分けて考えることも大切で、それを実現できる人は素敵だなと、私は心から思います。

それでも、私は、そんなに器用な人間じゃないみたいです。
大学の学問でさえ自分の趣味に結び付けて楽しんでいた私の原動力は“好き”という気持ちで、それがなければ何度自分に言い聞かせてもエンジンがかからないタイプ。
そして、これは自虐でもお情け頂戴的な表現でもなく、私は細かいことに敏感で、いわゆる社会不適合者。私の“好き”は、私を支えるものというよりは、社会不適合者の自分のままでいられる逃げ場所であり数少ない息のできる場所なんです。

就職活動のときにここまで考えることができていたら、今とは違うところにいたのかも、なんてちょっと思います。いや、結局同じかな。
私が今こうやって考えられているのは、他でもなく、“好き”以外の場所で生きていけないことを身をもって経験したからです。怪我をして初めて段差があったことに気づいた幼児みたいな。趣味として切り分けられるかもしれないけれどそれでも夢や憧れを追いかける、っていうほどの度胸がなかったから、「私はほかの場所じゃ生きていけません」って言い訳をつくることでようやく、真剣に自分について、自分と向き合って考えるようになれたのだと思います。

今後どうなるかはまだわかりません。
でも、ボロボロの心身を動かして、治して、強くできる場所を考えると、やっぱり息のしやすい場所じゃないと、これ以上酸素の薄いところにはいられないよ、って思っています。


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もともとお芝居が好きだったので、私と同い年の知り合いの中には、企業に就職をせずに役者になった人が何人かいます。そんな人たちの姿を見るたびに、尊敬すると同時に、ものすごく羨ましかった。私も大好きな表現の場に立ちたかった、って思って、でもその道を選べなかったことを環境とか実力不足のせいにしようとしていた。
ここにきてようやく、ああ自分が戦うという選択肢から逃げ続けていただけなんだな、って考えられるようになりました。
実際、その知り合いのひとりは、表現の世界にしか自分の居場所がないから、って言うんです。別の人は、成功する可能性も何もわからないのに、私が作品づくりしたいなあって呟いたら、好きに作品撮ってみようよ!って言うんです。

私は、流れ着いた先で新しい居場所をつくろうとした。彼らは、流れに逆らってでも居場所を守ろうとした。
正解はないけれど、そういう違い。


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さて、だんだんこのブログをどういうふうにまとめようか迷走してきています。笑

んー……。

居場所を新たにつくりあげることも、居場所を守り続けることも、どちらが正解でどちらが間違い、なんてことを言いたいわけじゃなくて。

「好きなことをする」って言うと、なんとなく、自分勝手というか、楽しそうで何よりですね、って思われがちかもしれないし、実際自分がそう思ってきたところもあるけれど、そんなことないんだな、って、ものすごく難しくて苦しくてしんどいことを乗り越えたり潜り抜けたり壊したりしながら自分の“好き”を守っているんだな、って考えるようになって、どうにかそれを言語化してみようと思って書き始めました。
それと、そうやって守り続けてきた“好き”を第三者に見つけてもらえたり、楽しんでもらえたり、認めてもらえたりすることって、本当に幸せなことだなあ、って。

社会人1年目の私は居場所づくりも居場所の保護も、どちらも中途半端になってしまったけれど、このことに気づけたのは大きいと思っています。
初めから自分の好きなことを追いかけていたら、たぶんどこかで「ほかの人は慣れない環境に飛び込んでいっているのに、自分は好きなことばっかりしている…」って考えてしまっていたと思うから。

そう、今ここまで書いて急に思い出しました。
大学3年のときに、さっきも書いた役者になった人と進路についてやりとりをしていたとき、私は大学院に進むことを「甘えというか、モラトリアム期間延ばしてるだけな気も」するって考えていたのに対し、相手は、
「一生モラトリアムしていたい気もする」
「というか社会でたらモラトリアム脱してるってのもなんか違うよね」
「大学生しかやりたい事を出来ないのはおかしいね」
って返信をくれていました。あーーーーー今になってようやくこのことばの意味がつかめた気がする。うわあ。え、なんか悔しい。そっか。
まとめようとしたつもりが新たな発見をしてしまいました。笑


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なにはともあれ!

今ここまで読んでくださっている貴方をはじめとする、私の“好き”を受け止めてくださるみなさん。いつもありがとうございます。受け止めてもらえるだけで、私は本当に幸せです。幸せ以外の語彙を持ち合わせていないのですが、これだけ長文のブログを書くくらい幸せです。

自分の“好き”を活力にして、目の前の困難や課題に立ち向かっているみなさん。尊敬しています。私にはできなかった道。当たり前にできることじゃないです。素敵だなあ。

自分の“好き”を守り続けて、一直線に走り続けているみなさん。貴方の“好き”が、貴方だけのものじゃなく、誰かの心を救ったり背中を押したりするのだろうなあ、と思います。素敵です。

今の私みたいに、どこにいるかわからない場所で立ち止まっているみなさん。生きるのって難しいですね。どうやったら道が見つかるんでしょう。私には貴方の道を示すことはできないし、むしろ私の道を一緒に探してください!!って言いたいところですが、ただ、私は、立ち止まっている痛みを受け止められる人間になりたいなあと思います。自分の痛みも、他人の痛みも。

ここまで書いてもやっぱり生きていくの嫌だぜって思う気持ちもあるけれど、泥まみれ傷だらけ息も絶え絶えの格好悪い姿でも、まあよかったかな、ってあっけらかんと笑える最期になればいいなあ、なんてことを考えられるくらいにはなりました。今の私は格好悪いだけだからまだダメだなあ。ふう。

 

 


では。また気が向いたときに、つらつらと書きに来ます。
ありがとうございました!