菅原裕一の持つ、憎むべき純粋さのお話。~『裏切りの街』感想~

●はじめに。

『染、色』以来の観劇感想ブログです。
髙木雄也さん主演の『裏切りの街』について。

あらすじを書こうとしたけれど、表面だけ追っても偏ってしまうし、詳しく書くとあらすじだけで5000字とか余裕でいきそうなので、割愛しました。たぶん、未観劇の方でも、読んでいる間になんとなくわかると思います(未観劇なのにこのブログ読む人いないか…)。
作品を観劇した方であれば、スルスルと読めるかと思います。納得できるかは別で。

あくまで私の個人の気持ちの整理。作品を言い訳にした自己主張と文章書きたい欲の消費。

●参考までに。

公演前、髙木さんのインタビュー記事には、裕一について以下のような記載が多かった。

「ヒモのような生活をしているフリーター・裕一と平凡な主婦・智子の物語で、(中略)お互いパートナーがいながら出会い系サイトで知り合い、なにかを求めるわけでもなく、ただ逢瀬を繰り返すだけ」
(宝島社『TJ MOOK CLUSTER』2020/5)

「菅原裕一は、定職に就かず彼女の自宅に住み込んでいる、いわゆるヒモ状態なのに、出会い系サイトを通じてほかの女性とも関係を持ってしまう男性」
東京ニュース通信社『TVガイドperson vol.114』2022/2)

「髙木が演じるのは、無気力なフリーター、菅原裕一。彼女の里美と同棲しているにも関わらず、出会い系サイトで知り合った専業主婦の橋本智子と不毛な関係を繰り返していく。あっている意味を深く考えず、恋人を「裏切る」という行為の罪悪感に苛まれることもなく、覇気のない毎日を過ごすという、いわゆるダメな人間」
産経新聞出版『TVnaviプラス STAGEnavi vol.65』2022/2)

●裕一と智子の愛情。

裕一がクズと言われる所以は、自分は働かず彼女である里美からお小遣いをもらったり、智子の夫である浩二のお給料をあてにしたりする、金銭的な部分が大きい気がしている。これは、クズ擁護派の私も、好きなことするならその金は自分で稼げや!と思わなくもない。ただ、彼女のいる裕一と、夫のいる智子が関係を持ったことに関しては、私はクズだとは思わない。社会的、法的に見たら、とかは一旦度外視して、ふたりの人間が何をしたのか、相手のことをどう思っていたのかを考えると、至極自然に思えてくる。
たとえば初めて会ったときからそうで。話を合わせているわけじゃなく似たような生活をしていたら、そりゃ一緒にいてもペースが同じで楽だと思う。テレビを見ていて同じタイミングで笑える、それって些細なことみたいだけど空間をともにするための条件として大切なことのひとつであるような気がする。誰かが笑っているときに自分も楽しければ楽しいけれど、自分と比較して卑屈になったり相手を羨んだりしてしまうとしたら、一緒にいるのはつらい。
この作品内で避けて書くことのできない、性行為についても。序盤、裕一は彼女の里美とセックスしたときに、最後までイケずに「あれ…ごめん…」ってなる。その一方で、性欲がないわけではなく、里美がいないときはパソコンでAVを見てひとりで自慰行為をしている。智子にとって、夫とのセックスはあくまで【子どもをつくる行為】になっている。気持ちいいかどうかよりも、その"結果"が求められている。子どもができるか否かは智子が選択するものではないが、台詞の端々から、子どもが生まれたときの負担を少なからず考えていることがわかる。妹の言う"諦め"をまだつきたくなかったのかもしれない。そんな2人にとって、責任の生じない、お互いが気持ちよいセックスは、純粋な快楽だったのだろう。互いにパートナーへの罪悪感を抱きながら、それでもパートナーが持っていないなにかを目の前の相手が持っていることに、欲を抑えなかっただけのことだ。行為後の裕一の「……イッちゃいました…」、智子の「あの……気持ちよかったです…」の台詞には、幼さすら感じる。
裕一と智子のあいだに子どもができたとき、2人は産むという選択肢を初めから排除していたのも、2人にとってセックスが【子どもをつくる行為】ではなかった、という認識の一致なのだろう。もちろん、生まれ来る生命に対して、堕ろせばいいだけで大事にならなくてよかった、って言う裕一は無神経のクズだと思うが、お互いに子どもを産み育てる覚悟も責任も期待も持っていないことを自覚していたことは不幸中の幸いだったのかもしれない。

と、途中までは裕一と智子の関係性は、無責任に快楽を得られることで結び付けられていると思っていた。日常のストレス発散であり、ある種のセフレ。それを自分では働かず人の金でしているからクズに見えるのだと、思っていた。

しかし、ラストシーンで、私は少し違う感情を抱いた。

そもそも、堕ろす金は自分で払う、と言ったくせに4ヶ月も智子からの電話を無視していた裕一は、何を考えていたのだろう。払えねえ…って逃げていた、といえば簡単にクズだと言えるが、そうではなかったのでは、と私は思っている。今日で会うのを最後にしましょう、と言った日、結局裕一は智子に甘え、泣きつき、セックスをした。裕一にとってあの頃もう、智子は、ただの遊びの「おばさん」ではなく、安心して甘えられる、受け止めてくれる特別な存在になっていたのだろう。だから自分勝手に、会ったらまた甘えて、また抱いてしまうから、距離をとっていたのではないだろうか。推測にすぎないけれど。
空白の4ヶ月間、裕一は、いない智子のことを考え、智子は、裕一のこと、そして夫とのあいだに産まれたとされてしまうお腹の中の生命のことを考え続けていたのだろう。そして、雪の中、初めて会ったときと同じ場所で、お腹の大きな智子と、それに驚く裕一は、いつもと同じベンチに座る。智子のお腹にいる子どもは、智子と裕一の、子どもだ。それは2人も、そして智子の夫の浩二も、わかっている。わかっているのに、裕一は父親にはなれない。いや、違うな。裕一はこの子どもの父親になりたいとは思わなかっただろう。ただ、智子が母親になってしまうこと、"浩二とのあいだにできたことにされる、智子と自分のあいだにできた子どもの母親"になってしまうことに、少なからず後悔を持ったに違いない。なにもできないことをわかっていながら「俺に何ができますかね、もう、遅いんすけどね」という台詞にその心情が見えるように思える。
この日、結局なぜ裕一は4ヶ月ぶりに会おうと誘ったのだろうか。智子は子どもを堕ろしているだろうと考えて金銭的な話でもしようとしていたのだろうか。真意はわからない。ただ、おそらく、本来の目的は達成できていない、というか、どうでも良くなってしまっていたと思う。

雪の降る寒い中、ポツリ、ポツリと話す2人。「そろそろ帰りましょうか」と裕一が呟くと、「まだ帰りたくないでしょう?」と智子に本意を気づかれ、「はい」と照れ笑いする。一緒にいたいと言ったわりに「……でも話すことなんもないっすね」と話題を見つけられない。ふと、「そういえば、俺らお互いのお名前知らないっすよね」という、いまさらすぎる事実に気づく2人だが、裕一は名乗ろうとしたところでフッと笑い、「いっか、名前なんてどうでもいいですよね」「そうですね、どうでもいいですね」と、また沈黙を生む。

このシーンが、私は狂おしいほど好きだ。この作品に似つかわしくないくらいのピュアな感情が見える気がするのだ。同時に、付き合うとは、結婚とは、不倫や浮気とは、そもそも恋愛感情とは、"好き"とは、一体誰が決めたカテゴリで、なぜ縛られているのだろうか、とも考えるシーンでもある。
寒くても、話すことがなくても、ただ隣にいたい。これから自分たちが結ばれることはなにがあってもありえないことをわかっていて、それでも一緒にいる空間に安堵感を抱いている。名前、という個を表す数文字がなにも意味を為さない、そのひとの存在がそこにいるだけでじゅうぶん。裕一は、智子と一緒にいる理由を、「(智子も)ダメ人間じゃないすか、だから、怠けてても怒られないっていうか、この授業ラクできるぞ、って先生いるじゃなですか、そんなかんじです」、と言っていた。字義通り捉えると、クズだなあ、と思うけれど、自分が素のままでいられる、と言い換えれば、それは極めて普遍的な愛情の理由になるのではないだろうか。
智子はなぜ裕一といる時間を大切にしているか、明言はしていない。さらに、裕一と違って、これから先、もしかしたら裕一の面影を残しているかもしれない子を、自分と浩二の子どもとして育てるという、一生の罪を毎日眼前に突き付けられ、背負い続けることになる。それでもなお、雪の中で智子はずっと微笑んでいた。裕一の気持ちに寄り添う形を取りながら、智子もこの雪の中の時間をゆったりと、彼女自身のスピードで、過ごしているように見えた。
セックスもしない、キスもしない、手すら触れない。大きくなった智子のお腹に裕一が触れることもない。お互いに「あなたのことが好きです」と言うこともない。すべてが、なんとなく、なんとなくで進んでいる。けれども確実にあの空間には、純粋な"好き"の感情が溢れていた。相手のためかどうかではない、あくまで自己満足な、一方的なものではあるけれど、それでも互いが互いのことを"好き"でいるのだということが痛いほど伝わってくるシーンだった。一方的な"好き"の感情を互いにぶつけ、互いにぶつけられる。それだけ。その感情で相手や環境を動かそうとはしていない。そんな、雪のようにすぐ溶けてしまいそうな、"好き"。

「キリないっすね、帰りましょう、ほんとに」「そうですね、帰りましょうか」と言って、裕一と智子はベンチから立ち上がり、雪の中、ゆっくりと同じ歩幅で階段をのぼっていく。のぼりきって顔を合わせ、「じゃ」と小さくお辞儀をし、反対方向に進み出す2人。数歩進んで、振り返ると相手も同じタイミングで振り返っていて、互いに目が合う。微笑みながら駆け寄り、「やっぱりもうちょっといっしょにいません?」「もうちょっといっしょにいましょうか」「はい!」と、まるで無垢な子どもかのような笑顔でまた"現実から逃げる"裕一と智子の姿が暗転に消え、物語は終わる。

このラストシーン、初めて観たとき、心の中で叫ぶくらい私の中で腑に落ちる、というか、パズルのピースがぴったりはまったような快感を得るくらいしっくりきて大好きだと思った。演出によって、このラストはいくつか可能性があったと思う。
お互いが反対方向に進んで立ち止まるところで暗転、もあり。
振り返って目が合うところで暗転、もあり。
目が合って駆け寄るところで暗転し、暗転の中で台詞、もあり。
駆け寄って、ことばを交わさず抱きしめたり、キスをする、もありかもしれない。
ただ、いろんな可能性を考えた中で、この作品のラストはやっぱりこれがしっくりくるのだ。その理由には、前述した、純粋な一方通行の"好き"の感情、というものが大きい。自分に何かをしてほしいだとか、自慢したいだとか、セックスしたいだとか、誰でもいいけど人と一緒にいたいだとか、そういうものを全部取っ払ったような、結局何があっても知らないけどとにかくこの人と一緒にいたい、という自己満足な感情が行動に直結している。そんなふうに感じた。

●"好き"とは、付き合うとは、結婚とは、性欲とは。

私は以前から度々、「クズなやつ好き!」だの「不倫だ!(歓喜)」みたいな発言をしているけれど、この作品を観ていてもやはり同じで、というかむしろ見るたびに裕一がクズに見えなくなっていく恐怖現象が起こっていた。最終的にラストシーンで泣いていたのだから末期だ。一方で、終演後規制退場の中で、「さすがにクズすぎ」「よくわかんなかった」「途中寝ちゃった」という声も聞こえた。一緒に観劇をした方に感想を聞いてみたところ、彼女は第一声に「誰にも感情移入できなくて、そのおかげで俯瞰的にストーリーを追えた」とおっしゃっていた。
たぶん、この『裏切りの街』、捉え方は様々なのだろうなあ、と思う。私は、この作品を観て改めて、クズと言われるキャラクターの人間らしさだったり、付き合ったり結婚したりすることに"求められるもの"と誰かを好きになる"感情"とのあいだに生まれる溝だったり、を考えさせられた。

人を好きになる理由は、なんだってありで、矛盾することも少なくないだろう。
自分と似ているから好き、自分にないものを持っているから好き、自分を叱ってくれるから好き、自分を甘やかしてくれるから好き。"好き"にもいろんなカテゴリがあるのかもしれない。あまり使いたくないことばだけど、ともだちとして、とか、かぞくとして、とか、こいびととして、とか。
でも私は、私個人としては、まずこの時点では、性別って関係してこないよなあ、と思う。

付き合う、となると、"恋愛感情としての好き"は基本的にそのパートナーだけであるべきだと考えられることが多い。その考えの表れが「浮気」ということばや行為だろう。自分のパートナーが他の人と2人きりでいることを嫉妬するのも、付き合っていればある種正当な態度だと言えるし、パートナーに言わずに自分が他の人と2人きりでいると何も悪気や下心がなくても後ろめたさを感じるかもしれない。
さらに結婚、となると、現在私がいる環境では、法律的にパートナーは異性であることが必須とされ、複数人のパートナーを持つことは許されない。パートナー以外の人と一緒に過ごすことは、時として「不倫」と言われるだろう。

このあたりで、私の脳内は、モヤモヤしてくる。人間の恋愛感情って、ひとりの相手にしか注げないように仕組まれているんだろうか?そもそも、なんとなくポジティブな感情を私は"好き"と名付けているけれど、その"好き"の中で恋愛感情に当たるのはどれ?いや、もしかして"好き"と恋愛感情は別物?同性に抱いた"好き"はどうしたらいい?仮に、恋愛感情がひとりの相手にだけ注げるとして、じゃあその恋愛感情の中に性欲は含まれているんだろうか。パートナーがいるけれど、その人がつくる料理より実母がつくる料理のほうが美味しく感じて好きだ、という食欲の好みは許されるが、パートナーがいるけれど、その人とセックスするより他の人とセックスするほうが気持ちいいから好きだ、は許されない。もちろん、行為の結果、生命につながる可能性もあるわけだから、そう簡単に食欲と比較はできないけれど、でも、なんか、そういうモヤモヤ。

だから、と言ったら非常に突飛かもしれないが、私がいわゆるクズと呼ばれる人間や浮気・不倫をする人間が出てくる物語に惹かれるのは、このモヤモヤが原因だ。『裏切りの街』の裕一をはじめ、パートナーに対して傷つけようという故意なく(ここが重要)、ただなんとなく浮気や不倫をする人間って、付き合うとか結婚する、という形式よりも、感情に素直なだけで、私的にはそのほうが人間らしいと思ってしまうのだ。作品内で、智子の妹は「結婚するって諦めるってことでしょ」と言う。クズと呼ばれる人間は、諦めきれない、もしくは諦めるということを知らないただのピュアなのかもしれない、とすら思う。

●裏切る、逃げる、噓をつく。

作品のタイトルにも入っている、“裏切る”という行為。
そして、智子や、裕一の友人の伸二が口にする“逃げる”という行為。
そのどちらを行うのにも使用される、“嘘をつく”という行為。
この作品は、この三点を考えさせられる物語でもあったなあ、と感じた。

伸二は、裕一に対して、「お前、いろんなことから逃げすぎじゃね?」と言う。彼女の里美との関係、人妻である智子との微妙な関係、そしてアルバイトを休み続ける状況、そんなすべてを伸二は「向き合えよ!」と一喝する。

でも、“逃げないこと”は正解なのだろうか。
何を“逃げ”と定義するかは、その結果次第ではないだろうか。
例えば、裕一と智子とのあいだに子どもができた時点で、もしくは、自分たちが2人でいる空間に安堵を抱いていると気づいた時点で、2人で遠い場所まで“逃げて”しまえば、物語の展開は変わっていた。裕一は彼女を、智子は夫を“裏切って”、2人で貧しいながら暮らしていたら、どうだっただろうか。それをせずに、形式として正式な、彼女と、夫と、離れずに過ごすことを選んだのは“逃げない”判断だったといえるのか、と考えると、それはなんか違うなあ、と頭を抱えてしまう。

智子と裕一だけではない。夫の浩二も、彼女の里美も、アリバイ工作をしながら嘘をつき、裏切っていた。
浩二は、自分の妻と不倫をしていた裕一に対して、「実は俺にも女がいてさ」と話すシーンがある。そのまま、「あいつに愛情を注いでいるのは本当だ。でも他の女と会っているときはあいつのことなんてどうでもよくなって、結婚なんてしなければよかったとも思う、これも本当だ。本当ってのは、ひとつじゃないんだよ」と続ける。
里美も、「裕ちゃんと別れるつもりはまったくなくて」と口にする。そしてそれは、裕一も、智子も、浩二も同じだろう。別れるつもりはない。愛していることが嘘なわけではない。でも、浮気や不倫をすることで、結果として相手に嘘をつき、相手を裏切るという行為に見えてしまう。

なんか、なんだかな。
前述した、恋愛感情を注ぐ相手はひとりだけだと仕組まれているのか、っていう私の考えにも直結してくることで、嘘をついているわけではないのに、社会が求める像と比較したときに、その行為は浮気ですよ、パートナーに対する裏切り行為ですよ、って言われているだけ、というか。

うーん、書き始めたはいいものの、うまくまとまらないのでこの辺で。

●その他、箇条書きで。
まだこのブログ中盤くらいのつもりだったけれど、現時点で7000字を超えているので、あとは気になったところを。
・結局、斎藤くんって何者?本当の部下なら名前変えなくていいはずだし、「大丈夫ですか?」のとき、ものすごく怪訝そうな顔していたのが気になった。
・自分のことを棚に上げて相手に言わせる手口、みんなズルい。
 浩二→智子へ「智子、俺に話すことない?」
 智子→浩二へ「浩二さん、私に言うことありますよね」
 裕一→里美へ「俺に言いたいことあんでしょ、ちゃんと言って」
 伸二→裕一へ「俺に言いたいことあるよね」
・自分が妻といつ頃セックスしたか自覚あるだろうに、3ヶ月の子どもが智子のおなかの中にいることを知った浩二が「産んでくれるよね?」って言うシーン、サイコパス?「……もちろんです」「ありがとう。嬉しいよ。…行ってきます」「……行ってらっしゃい」のあの空気の重たさえぐい。
・周りの人間を使って自分は無実潔白の人間だぞみたいな嘘をつく浩二がいちばん腹立つわあ。
・初めて智子とラブホに来たときの裕一「一応彼女に罪悪感を感じちゃってて、後悔もしちゃってて、そんな自分って優しいなあって思って」って台詞、最初聞いたときはいやいやクズ!って思っていたのに、今となっては裕一の純粋さを表すことばにしか聞こえない脳内バグ。
・智子と浩二の敬語/タメ語のタテの距離間。
・裕一と里美はタメ語同士だけれど、テレビの音量下げてくれる?って頼まれたときの裕一が「あっすみません」ってめちゃくちゃアップシフトしていたの気になった。
・智子が子どもができたことを裕一に直接伝える大切なシーンの自販機!!!自己主張すな!!!そんな大事なシーンでレモラを売るな!!!

●終わりに。

JUMPさんを好きになり初めての現場だったけれど、千秋楽のカーテンコール以外、私は髙木雄也さんを見なかった。本当に、ただただ、私は、菅原裕一の姿と感情を追っていた。素敵な作品に出会えて幸せです。

今回のブログのタイトル、「憎むべき純粋さ」について。
私は昔から、「憎い」という形容詞が好きだ。
こころにくし、という古語は、憎悪の意味ではなく、奥ゆかしいというほめ言葉として使用されていたこともあり、単なる嫌な気持ちではなく、心のどこかで羨ましくて嫉妬してしまう、そんな気持ちを込めたいときに「憎い」を使う。
私にとって、菅原裕一は、本当に愛おしくて、憎い存在。