血だらけでも譲りたくないもの。

私の鬱々とした気持ちの話だから、あまり気分のいい話ではないかもしれない。
嫌になったら、いつでも引き返してくださいね。


ある意味、これを、遺書にしてしまいたいくらいの気持ちで書き始めています。

こんなこと言って、結局いのちを絶つ勇気も手段も持っていないから、生きながらえるんだろうけれど、それでも一度ここで自分が死んでしまっても構わないと思うくらいの気持ちで、これを書こうとしています。

 

私は、ことばが好きです。

何が好きって言われたら分からないけれど、私は、ことばが好きです。

 

好きであるがゆえに、過敏になって、怖くなって、小さな棘で流れる血も苦くて、そうして、気づいたら、鬱になっていました。

もちろん他のストレス源もあると思います。仕事の内容とか。
でも、これまでの短い人生の中で受けたことのないことばの波の中で、息ができなくなったのも、大きな要因だと、私は思っています。

 


資料の片づけをしていて、仕事中の自分のメモを見つけました。

『共通言語で話したい』

ひとこと、そう書いてあった。


これまでの生活の中で、たとえ本当に思ったことが伝わっていなかったとしても、分かったふりができる程度には意思疎通ができることがあたりまえでした。
それはきっと、これを読んでいる多くの人もそうなのではないかと思います。
そりゃ、感情を伝えるってなったら話は別です。感情なんて、どれだけことばを尽くしても伝えられない。色をことばで表現するようなものだから。
でも、いわゆる「事実の説明」であれば、ある程度は、伝わるものだと、私は思っていました。

それが、できなかった。

背景知識の違いと、その意識のすり合わせの失敗、ことば選びの癖、いろんな原因があると思うけれど、なんにせよ、私は、上司の話していることばの理解が出来なくて、自分が何を理解できていないのかもわからなくて、そうしてどんどん息ができなくなっていました。

なにが正解だったのか、私にはわかりません。

わからないことをどうやって質問すれば伝わるのかもわからない。
質問したメールに対して「どういうことかよくわからなかったんだけど笑」って言われる。
説明をしてもらっても、結局自分が気になっていた部分が解決されていない。

そんなことを繰り返しているうちに私の心が限界を迎えたようでした。

新入社員だから当たり前だろ、と思う人もいると思います。
私ですらそう思う。なんで耐えられなかったんだろう。わからなくてあたりまえだって開き直ればよかったのに。って。
でも、私のことばの感度がそれを許さなかったんだと思います。

 

私は人に比べて、話すのが下手だと思います。
どういうことばを選ぶのがよいか、どんなことばだと相手に上手く伝わるか、考えて、考えて、考えながら話してしまうから、いつもすごく時間がかかってしまいます。
だからこそ、考えて考えて考えたことばの羅列を「よくわからなかったんだけど笑」で一蹴されたときに本当にショックだった。
共通言語を話せない人と、どうやって意思疎通を図ればいいか、わからなくなったのが、そのときからだったのだと、今振り返ると思います。


次第に私は、共通言語を話している「フリ」をできるようになってきました。
それとなく仕事をこなせるようになってきました。
でも、自分が何をやっているか、理解できていないまま。
脚がもつれたまま走り続けているような状態でした。
今さら聞けない、気づいたら独り立ち状態になっている、どうしてもわからなくて質問すると私の知らないスキルでしか解決できない方法で進められていく。

どうしたらいいかわからなくて、また私は、息の仕方がわからなくなりました。

だんだんと、ストレスという形が、鬱になっていったのは、このあたりだったんじゃないかと思います。

 

 

思ったより長くなってしまいました。

私が書きたかったのは、こんな過去を振り返る話じゃなかったのになあ。

 

あのね、

まあ、上記のようないろんなことを思って、いわゆる鬱状態だと診断されて、仕事もお休みすることになって、もう今なにもかもが嫌で、しにたいって、日に何度も何度も思ってしまうんです。
伝わらないことばを吐き出す毎日が、心をカスカスに擦り減らしてしまっていたみたい。
推しを見る元気もなかなか出ない。大好きな言語学の本を読む気力も、分析をする元気もなかなか出てこない。ただ漫然と時間だけが過ぎていって、そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、しにたくなるんです。


でも、


私は、ことばが好きです。
これだけは、最期まで絶対に譲りたくないんです。


心が既にボロボロだった10月の頭に、知り合いのお芝居を観に行きました。
観劇後、なかなか感想がまとまらなくてうまく伝えられなかったのですが、
「ぽんさんの感想楽しみやから、またじっくり聞かせてほしいなあ」
って言ってもらったんです。
その人は過去に、私の観劇の感想が、本格的に役者を志すきっかけになったって言ってくれた人でした。


そのときに、私は、私のことばの存在を認めてくれる人がいるんだ、って思って、嬉しくて、悲しいくらいに嬉しくて、涙が止まらなかったんです。
おかしいですね、今これを書いていても涙が出てきました。笑

 

無謀な希望かもしれないけれど、
もし私のことばで何か光を見つけられる人がいるなら、
私のことばで誰かの背中を押したり、誰かの手をにぎったりすることができるなら、
私は死ぬ直前まで、私のことばを、大切に、大切にしたい。


そう、思ったんです。

 

これだけ長く書いておきながら、伝えたかったのはこれだけです。

例えばもし、私の文章がきっかけで言語学を好きになってくれた人がいたら、それだけで本当に幸せなんです。
私のことばがきっかけでなにか視点が変わったって人がいたら、それだけで本当に嬉しいんです。


私は、自分のことばにずっと、誇りを持っていたい。
ことばを好きでいる自分に、胸を張っていたいんです。


具体的にどうしたらいいかはわかりません。今考えるつもりもありません。
だってこれはただの遺書だから。
もし私のいのちがなくなっても、私のことばを生き続けさせるための、ブログなんだから。


明日もし私がいなくなっても、この文章だけは生き続けるんだよ?
愉快で、皮肉で、楽しいでしょう?

 

私は、ことばに傷つけられて、ボロボロにされて、ことばに敏感だからこそ必要以上に血まみれになってしまった。

それでも私は、死ぬ直前まで絶対やめないんだから。
私のことばだけは、誰にも殺されたくないんだ。

 

誰に届くのかもわからない誰かへ。
私のことばが響く誰かへ。